「いたたまれない~!」という言葉が、ハチワレの声とともに脳内で反響した。ハチワレはもちろん、作中でそんなことを言っていない。
このうえなく慕っているひとを目の前にすると、得てしていたたまれない気持ちが溢れ出す。その場でじっとしている身体とは対照的に、心がジタバタ悶え始めるのだ。とはいえ、そんなことを言いながらも、穴があくほど見つめてしまうのだから、結局のところ私もそれなりにしたたかである。
最前列で浴びる弾き語り、すなわちそれは、いつものライブと異なる衝撃に打ちのめされるということを意味する。内心穏やかではないし、汲々とする気持ちは切実だし、でも、やっぱり、何にも代えがたいくらいに尊い時間を吸い込んだにちがいなかった。
一発目から「フラッシュバック」が穏やかに奏でられる。それとは対照的なのは、無論私の心である。入ってくる情報の多さに停止した思考が行きついた先は、ちいかわだった。「ワァ…ワァ…」という言葉が心のなかを頻りに飛び交う。
「フラッシュバック」というレア曲。それから目の前にすっくと佇む山田将司。情報量が、あまりにも、多い。穏やかで、しっとりとしている曲とは裏腹に、途方もなく力強い声量に包み込まれる感覚を覚える。もはや、これは、音の洪水である。押し広げるようにして、心にエネルギーが満ちていく。まるで、満ちる月のように。
そういえば、この日は、偶然にも満月だった。
弾き語りスタメンの「きょう、きみと」。「月が綺麗で」という歌詞が、リアルな質感とともに心に伝わる。今日も、月が、綺麗だ。そんな偶然によるめぐり合わせを感じずにはいられなかった。そんな日にこの曲を聴けるなんて、とっても粋で、あまりにも幸せだ。
仕事終わりに聴く「ファイティングマンブルース」は、ぐっと心にクる。
「何もない世界」を弾き語りで聴いた夏の日から1年近くが経過していることに気付く。夏に夏の歌を聴くことが、こんなにもうれしい。
六弦と声だけで創り出される世界をたゆたう。調和のなかを漂い、叫びに恍惚としては、見たこともない夏の日を想像する。夏という概念が、あまりにも綺麗だから、どこでもないどこかに、ふと想いを馳せてしまうのかもしれない。
それともあれは、「何もない世界」のMVで繰り広げられている情景を反復させたものだろうか。
夏はまだ終わりそうにないけれど、少しずつ短くなる陽や熱が和らいだ風を感じるようになったことを思えば、夏が消滅するのは間近であるような気もする。夏の終わりは何にも増して唐突だ。
ところで、「何もない世界」なのに、こんなにも情緒が搔き乱されるのは、この歌に〈すべてがある〉ことをなんとなく感じるからかもしれない。
六弦と声だけとは思えないほどの圧と声量を浴びて、いつもとは違った命を目の当たりにしたことに、気分の昂揚を抑えられなかった。
「いけるかな。やってみるかな。」そんなふうに無邪気にひとりごつ山田将司は少年そのものだった。わずかな迷いと、胸の高まりとが手拍子に溶ける。リアレンジ版の「罠」がはじまった。こんなふうにしてこの曲と再会できたことに破顔一笑。
とはいえ、そんな悠長なことを言っていられないほどに、鬼気迫る表情で、もっと言えば鬼の形相で六弦を掻き鳴らす山田将司。そこから目が離せない。真剣なまなざしに串刺しにされながら、ほとばしる「罠」を目の当たりにした。
演奏が終わったとき、笑いながら「弾き語りでやるもんじゃねぇな、左手死んだ」と無邪気に笑う山田将司も、やはり少年そのものだった。ギターを弾かない私でさえも分かる。超絶技巧で六弦を弾かないとあの「罠」は演奏できないってことを。
腫れ上がるような「罠」とは対照的な「15歳」が高熱にくらむ心を冷ましてくれる。そよ風のようにやさしい曲で、心が透明になるような気がする。弾き語りだからこそ聴くことのできる定番曲がとても愛おしく感じた。
誰かとのセッションで聴くことはあったけれど、ソロで歌う「空、星、海の夜」は、なんだか新鮮に感じられる。ぽつりぽつりと弾かれる弦のように、訥々繰り出される言葉をこぼさないように、一心に耳を傾ける。星空が広がる夜の底、あるいは海のなかへ落ちていくような感覚に陥る。
この歌の底は、どれだけ深いのだろう。聴き終わったとき、たしかに心がまるごと洗われたような心境にいたる。同時に、この歌にどれだけ支えられてきたのかということを思い知らされる。
山田将司が言うように、歌に導かれたことでたどり着いた今日。目には見えずとも、歌は心に深く刻まれている。この存在に、導かれている人生であることを、繰り返し銘記する。灯になってくれてありがとう。
魂を込めるって、こういうことではないだろうか、と腑に落ちることがあるとすれば、「花」を歌う山田将司以上に的確な例はないような気がした。もちろん、これ以外にも命を吹き込まれた楽曲は数知れずあるし、その一端を間違いなく目の当たりにしてきている。
それでも、己の身一つで表現する姿を目の当たりにすると、魂の輪郭が透けて見えそうなくらいに、その躍動を感じずにはいられないのだ。声だけなのに、声だけだから、これほどまでに力強さをビリビリと感じるのだろうか。山田将司だからこそなせる業にちがいないだろう。
わずかな涼風を手繰り寄せようとした宵の口、身一つで演奏される歌の数々は圧巻の一言で、胸の高鳴りをただただ感じていた。夏がそろそろ終わる。胸のほとぼりは、まだ冷めそうにない。
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