【ライブ記録】THE BACK HORN「KYO-MEIワンマンツアー」〜アントロギア〜@20220610 Zepp DiverCity

THE BACK HORN
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図らずも至近距離で目の当たりにできた光景に圧倒されてから、早くも一週間以上が過ぎてしまった。

最高のライブを見た日には全力疾走したくなる性向は30歳になった今でも健在だが、今回は最高を上回る最高が過ぎたので、とぼとぼとしか歩けなかった。なかなか言葉にならない〈あー〉とか〈うあああああ〉とかいう音だけが宙を舞って即座に虚空へと消える。この日酒を仰がなかったのだって、前日に相当キツめの二日酔いをキメたからというのが理由ではない。

本当に、圧倒されると言葉を失ったまま立ち尽くすらしい。

もしかするとそれは、蛹が蝶に成る過程のように、現在の姿を一旦破壊し、固まるためにじっくりと時間をかける工程が必要であることに似ているような気がする。

殻の中にいる蛹のように、ドロドロとして傷付きやすい養分が、言い換えると成虫になり切っていない感情が、完全体になるのを今か今かと待ち構えているような、ジリジリとした期間というのが存在する。

これは、今まで書けなかったことの言い訳であるが、然るべき理由でもある。さて、溶けだした感情はどんな言葉になってくれるだろうか。

これは酒も全力疾走もログアウトしたくらいに、とんでもないすごいとても最高な出来事。

この感動と興奮を少しでも永く憶えていたいから、目撃した情景を書き記してみる。いつかまたこの記事を見返したときに多幸感が甦るように。

どれだけ書いても、きっとその核が〈ああ、最高だった、本当に〉という一言に尽きることにはちがいはないが、〈ああ、最高だったな、愛だよな、徹頭徹尾、愛〉なんて感想に至った出来事について紐解いてみたい。言葉を過度に装飾することはたしかに野暮かもしれないが、それでもこの核を解剖することそれ自体は、そんなに無粋なことではないだろう。

随分と前置きが長くなってしまった。言及するまでもなく、今回の公演も圧巻だったのだが、ここまで茫然自失とした理由はその様を最前列で見たことでもある。

十数年通っていれば、少なからず最前列だったこともたしかにあった。それでも広大なステージを一番前から見れる機会は一度もなく、前回の横浜公演のときに最前列に並ぶ人々を見ながら〈いつかはあの場所から彼らを見てみたいものだ…〉なんて思っていたばかりなので、類まれない僥倖に巡り合ってしまった。

しかも当日まで2列目だと思っていたので心の準備は何一つできておらず、〈あああああああ〉と天を仰ぎつつ、終始穏やかでない内心を宥めることに腐心するなど、これもまた稀有な経験をした。

ところで本ツアーのSEは音源化されたりしないのでしょうか…。華やぐ絢爛さを湛える美しい音の連なりをいつまでも聞いていたいと思う。ライブDVDが発売される日が待ち遠しいですね。

5月4日のツアー初日から1か月以上経って改めて聞いたアントロギアの楽曲たちは、一層勢いを増していると感じた。THE BACK HORNによって命を吹き込まれた楽曲たちは瑞々しく鳴り響き、あの広いフロアを掌握していた。

様々な場所で奏でられながら、一つひとつが掛け替えのない楽曲になって、私たちのなかに深く根を下ろしていくのだろう。「瑠璃色のキャンバス」の一節に触れながらそんなことを考え、共鳴した心が震えた。

ちっぽけなちっぽけな種が芽を出して
グッと強く胸の中根を張って
いつだっていつだってあなたを想えば
なんだって越えてゆける
そんな気がした

山田将司「瑠璃色のキャンバス」、2020年

THE BACK HORNは種を蒔くひとたちだ。小さな種が人知れず銘々の心に根付き、それは明日を生きるための約束になって、夜を越えさせてくれる糧になるにちがいない。この先のことはよく分からないけれど、不確実なことばかりだけれど、それでも、たぶん大丈夫だと、そう思える安心感を「僕らの場所で」1もらったのだ。

ライブ全体をとおして印象的だったのは、めいっぱいの愛で充溢していたということ。愛が同席するライブに居合わせたのはこれが初めてではない。

それでも、ぎこちないながらもひたすらにやさしくて、このうえない愛が一貫して満ち溢れているライブというのは、THE BACK HORNだからこそ鳴らすことができる場所なのだという確信を禁じ得ない。とかく始終朗らかな笑顔で六弦と戯れていた栄純先生と一緒になってはしゃいだ貴重な体験をしたと、個人の感想ではありますが、私は高らかに主張したい。

この眺望を永続的に見ていたい。終わらないでほしい。恍惚としながらも後ろ髪を引かれる想いを拭いきれなかったのは、会場にいた私に限った話ではないだろう。終演後、刃になった名残惜しさに切りつけられて、そりゃもう立ち直れないのも至極当然だよなって独り言ちた私は、灰になって東京湾にばら撒かれた。東京湾に花と散るらむ。

希望というものはもしかすると残酷なものなのかもしれない。誰かの願いが叶うのは、誰かの犠牲のうえに成り立っていることなのかもしれない。花を摘むことが花の命を奪うことであるように。それでも、感謝することだけは絶対に忘れたくないと思う。

たしかそんなことを山田将司は訥々と語っていた。彼はいつも丁寧に言葉を紡ぐ。愛おしい拙さとともに、危うげなやさしさを湛えている言葉は、飾り気がない真意だからこそスッと浸透していくのが解る。これは私の恣意的な考えに過ぎないが、だからこそ、心から信じてみたいと思うのかもしれない。

そういえば、ライブというものに救われているのは、何も我々観客に限ったことではないらしい。演者である彼らも同様に支えられているのだという語りを聞いて、ただただ胸が熱い気持ちでいっぱいになった。観客の一人として彼らに、心から感謝している彼らに、何かしら返すことができているらしい。この事実が、途轍もなくうれしい。

私はこれから何処にいくのか見当がつかない。そんなふざけた話あるのかと自らツッコミを入れたくなるのだが、本当に、身の振り方が釈然としないのだ。

それでも言えるのは、たぶん何処にいても、きっとまた行ける限りのライブに足を運ぶのだということだ。交通の要衝である関東にいるから、というのもあるけれど、東北の北端だって、四国の各所だって私は赴く。

「帰る場所ならここにあるから何処へでも飛んでけよ」2と教えてくれたのは、それこそTHE BACK HORNなのだから。

彼らが集めた花は、言葉は、たしかに私たちの元に繋がって、それぞれの糧になっていく。花の命を受け取って支えてもらった命を明日へ連れていく。全身全霊の感謝を込めて。

  1. 山田将司「瑠璃色のキャンバス」、2020年[]
  2. 菅波栄純「シンフォニア」、2012年[]

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