17時を回ってもまだ陽は高い。凍らせたペットボトルは私以上に汗をかき、その冷気を放射している。摂氏35度を上回る外気をそよぐ風は熱波に等しく、たとえ待機場所が日陰であろうと、こんなときに屋外にいるなど正気の沙汰ではない。
待ちに待った2024年7月28日、第5回夕焼け目撃者。
私たちはこの日、夕焼けを目撃することを口実にクソ暑い東京に集まった。
無事に生還できるだろうか、心躍るライブの瞬間を待ち構えるさなか、大袈裟な不安がたびたび頭をもたげる。夕刻を過ぎてもあたりを覆う熱は治まりそうもないので、それが的中しないことを祈るばかりだった。
陽が沈むにはまだ時間がある。うだるような暑さを残したまま、ライブは始まった。
「甦る陽」。曲名のとおりに太陽がこれ以上甦ったら困るので、太陽が今よりもエネルギーを放たないことを願うばかりではあったが、「甦る陽」によって甦ったのは、紛れもなく会場にいた私たちだった。「甦る陽」から繰り広げられるライブの期待値は那由多と化した。この曲調からして駆動する様はフルスロットルとは言わないにしても、たしかな熱が心に宿った。何も暑いのは物理的な外気温だけではないのだ。
そうこうするうちに、夏が弾け出した。夏空の下で聴く「光の結晶」はなんと爽快感に満ち溢れていることか。汗ばむ陽気を通り越してぶっ倒れそうになる気温であるにもかかわらず、冷たいしぶきを浴びるようになぜか清々しい気持ちになった。「光の結晶」という曲のなかには、追憶の夏が息衝いている。胸を焦がすように、どこか切なくなる夏が、そうした概念上の夏の息吹が、この曲からたしかに感じ取れる。
「希望を鳴らせ」。THE BACK HORNが希望を鳴らしていた頃、蝉たちも負けじと大合唱していた。虫たちの音色をともに楽しむことができるのは野音ならではの唯一無二の魅力だ。今思えば、生命を掻き鳴らす音色もまさしく希望である。図らずも力強い生命がぶつかり合った瞬間を目の当たりにした。「逆境の中で自らを誇れ」という力強い言葉のおかげで私は何とかやっていけている。
私は「8月の秘密」が始まると「アアアアアアアアア」と鳴き声を漏らしてしまう生き物。こうやって字にしてみると、生き物というよりもただの化け物である。8月を目前に「8月の秘密」を聴くという情緒をめぐっては、どのような言葉を連ねればその美しさと感動を表現できるのか頭を抱えるばかりだ。言葉にならない感動は、えてして「アアアアアアアアア」といううめき声として表出される。もはや情緒もへったくれもない。「8月の秘密」を聴いたことで灼熱のマニアックヘブンVol.12を思い出したが、おそらくあの夏よりも今年の夏のほうがよっぽど暑い。
立て続けに奇声を発することになったのは、「深海魚」を聴くことができたからだ。軽快な手拍子がなんだかとても懐かしい。アントロギアツアー以来、「深海魚」を聴くのは初めてだろう。それくらいに久しい曲だ。振り返ると、当時は最もどん底を這いずっていた頃でもあって、そういう意味でも『アントロギア』というアルバムはあのときを泳ぎ切るための命綱にほかならなかった。だから、『アントロギア』の曲たちにこのタイミングでまた会えたことは、このうえなくうれしい巡り合わせだった。
多幸感もひとしおに続いたのは「生命線」。私は甦ったのか、はたまた朽ちたのかもはや分からないほどになっていた。我ながら飽きもせず、よく泣く。たとえ毎日聴いていないのだとしても、私は聴くたびにこの歌に掬い上げられている。なんとも筆舌に尽くしがたい。たしかに言えるのは、「生命線」という歌が徹頭徹尾必要だということくらいだ。
「コワレモノ」の中盤で、岡峰さんが腕を前に伸ばしては曲げるという動きを繰り返ししていた。パシフィコ横浜で巨大なスクリーンに映し出されたあのコワレモノたちがそんな動きをしていたような記憶がある。こんなにお茶目な曲だったろうか。いずれにしても拓けた空の下で「神様だらけのスナック」を連呼したのはこのうえなく清々しい思いがした。
ここで影シリーズの第2段である「ジャンクワーカー」が紹介される。新曲のお披露目に再び立ち会うという至福を噛み締める。曲名からも分かるように、いわゆる仕事がテーマであるこの曲。淡々と紡がれる言葉と、もちろんそれだけに留まらない音の並びに表情が緩んでしまった。
「がんじがらめ」が表現するがんじがらめにもつれる感じが好い。ちょうど先日の対バンライブのときにもセットリストに組み込まれていたので、1ヶ月の間に同じ曲を立て続けに聴けたことになる。ツアーではよくあることかもしれないけれど、別のライブでそんなふうに重ねて聴けるのってなんだかとてもいいな。気持ちとしては「マジ半端ないっすね!」一択。
少しだけもの悲しさが漂う日暮れ間近の夏空と、そんなことは一切お構いなしに鳴り渡る「アブラカダブラ 嘘と言ってくれ」が醸し出す情緒とのコントラストに視界が揺らぐ思いがした。いついかなるときも「修羅場」はエグい。山田将司による渾身の嗚咽からしか得られない養分があることを私たちは知っている。
まさか「墓石フィーバー」を聴けるだなんて。ライブではお馴染みであるキ○ガイバージョンである。あまりにも苛烈だ。岡峰さんと栄純ちゃんによるバックドロップを指さしながら「絵じゃないか」と歌う山田将司がシュールだったが、とはいえ本当にそういう歌詞なのだから仕方あるまい。
山田将司がギターを持ったとき、いつも以上に次に歌う唄が何なのか前のめりになって見つめてしまう。今回は「夢の花」だった。「夢の花」という曲は凛としていて、しなやかで、とても鮮やかだ。擬人化というと語弊があるかもしれないけれど、「夢の花」みたいなひとになりたいと、ふと思った。
今回のライブでは『アントロギア』から色んな曲を聴けたのが個人的にはとてもうれしかった。それにしても「夢路」はズルい。これもいつも泣いちゃう。とにかく感激したのは「夕焼けに染まる空 またここに帰り来よ」という曲の終わりと同時に頭上に朱い雲が浮かんでいたことだ。まさに夕焼けにほんのり赤らめる空がそこには広がっていたのだ。なんという巡り合わせだろう。いつかまたこの歌を聴いたときに、野音のライブで観たこの景色を思い出せるだろうか。できるだけ長く留まってほしい記憶がまた増えた。
これくらいの時間ならば、あるいは夕焼けを目撃できるかもしれない。そんな目論見のもと編まれたのが今回のセットリストだったのかもしれない。そんなことを思うに至ったのは「夏草の揺れる丘」にも夕焼けの描写があるからだ。「夏草の揺れる丘」に望郷の夏を想う。この日に限っては、胸を叩いたのは雷鳴ではなく、オレンジ色に染まった空に鳴り響く彼らの歌だった、そんなふうに言ってもいいだろうか。
いわゆるしっとりゾーンを終えて飛び出したのは「ブラックホールバースデイ」。徐々に涼しくなってきたのでーーーとはいえ依然と30℃程度はあったろうーーーこれみよがしにどれだけはしゃいでも大丈夫、などという暴論が脳裡をかすめた。私は「運命に革命を」という歌詞が一等好きだ。この歌は勢いあまってはしゃいでしまうくらいに命の躍動を感じさせる。が、それ以上に生きていることの重さを感じさせもするのが「ブラックホールバースデイ」の真髄だと思う。
かっこよさがどうしても先行してしまうけれど、「真夜中のライオン」に込められた想いは夜空を翔ける流星のように煌めいていることを忘れてはならない。自由は、ほかでもないこの手で誰でもない私が掴み取るものだ。それと、これは毎回言っている気がするが、岡峰さんのベースを見ていると、ベースも打楽器なんだなと思わせる節がある。
気が付くと太陽は沈み、空が少しずつ群青に染まったころ、これまた「シンフォニア」の歌詞にピッタリと重なる現象が。「走馬灯のように光る星」とともに見上げれば幽かな星が真上にあった。ビル群がひしめく都会の真ん中でも、星がちゃんと見えるんだな。まさしく「突き刺す感情を染める」のは頭上の「群青」だった。土砂降りとTHE BACK HORNという組み合わせも大好きだけれど、晴れているときにしか見えない景色が見えたのも大切な体験だった。
否応なしに終わりが近付いていることを察知せざるを得ないのは「太陽の花」が始まったから。夕焼けとは打って変わって「星」という単語が歌詞のなかに散りばめられていることに気付く。「ブラックホールバースデイ」も「シンフォニア」も、そしてこの「太陽の花」にも。「シンフォニア」や「太陽の花」は終盤に組み込まれることが多いので、それも織り込み済みだったのだろうか。夕焼けと星、それらを目の当たりにするだけの時間を、それにまつわる彼らの音楽とともに過ごすことができたのは、奇跡的な巡り合わせに違いない。
本編最後の曲について話す前に、まずはライブが始まる前に照準を合わせたい。ライブが始まる前、野音のそばにある商業施設で私は羽根を休めていた。その際、なんとはなしに向かったのはそのビルの高層階にあるテラスだった。そこから日比谷公園に視線を向けたとき、聴きなれた重低音が耳に届いた。それが「JOY」だった。リハーサルなのか、ちょっとした練習なのか、これは後者だろうと思ってその場を去った私は度肝を抜かれた。このライブの最後に、それも久しぶりに「JOY」に会えたからだ。この歌を聴いていると、穏やかなやさしさとぬくもりに包まれて、心がじんわり温かくなるのを感じる。THE BACK HORNの愛はどこまでも深くて広い。折に触れてその温かみを思い出したいものだ。この温みがこの世にとどまる理由になるはずだから。
19曲という分厚い本編を経て、それでも私たちは強欲だからアンコールを期待してしまう。アンコールの1曲目は「ヘッドフォンチルドレン」だった。ほとんど暗くなった屋外と「ヘッドフォンチルドレン」という組み合わせがあまりにも最高だった。もちろん真っ昼間だろうと真夜中だろうと、聴く時間帯に関係なくこの曲が最高であることに変わりはない。が、より一層最高だと感じた訳は、暗い空を背景に「ヘッドフォンチルドレン」を聴くことで、終わりゆく一日に「世界が終わる頃」を重ねたからかもしれない。えてして夜中よりも夜になったばかりのころのほうが、一層の哀愁が漂う。
それにしても、THE BACK HORNが描き出す〈青〉は、なんて美しいんだろう。「瑠璃色のキャンバス」しかり「ラピスラズリ」しかり。そして、言わずもがな「コバルトブルー」も。思えば、「また生きて会おうぜ」という言葉を私たちが耳にするのは、いつも終わりがやってくるときである。山田将司が放つ「また生きて会おうぜ」は、明日という始まりを祝福する福音でもあるのだろう。終わりに告げられる始まりこそ、明日に向かうためのたしかな希望だ。だから飽きもせず「もう1度始まっていく」ことができるんだ。こんなクソみたいな世界のなかで。
アンコール含め20曲以上歌ってくれているにもかかわらず名残惜しさしか感じない感傷をぶった切る「刃」という曲。「刃」を聴いてしまったら、突き進むしか選択肢はないよなぁ、と前向きな諦めがやおら腑に落ちた。それから、なんともいえないこの爽快感。「刃」という曲が吹っ切れさせてくれたのだろうか。何を、と言われても、それこそ名状しがたい何らかのつかえであり、蟠りとしか言いようがないのだけれど、たしかに心にかかった霧が晴れるような思いがした。
もしかするとそれは、このライブを無事に生還したことによる達成感でもあったのかもしれないし、汗とともに憑き物が落ちたことによるものかもしれない。言葉にすると途端に薄っぺらいけれど、ちゃんと、ここで生きている手ごたえが、たしかにあった。いついかなるときもTHE BACK HORNは私のど真ん中である。やっぱり、どうしたって、THE BACK HORNなんだと。
そうやって、THE BACK HORNが大好きだということを性懲りもなく噛み締めて、しばらくすれば思い出すことがなくなるくらいに同化して、ライブに行くたびにまっさらな気持ちでさらに大好きになるのだろう。その繰り返しを幸福と呼ぶに違いない。
第5回夕焼け目撃者、ありがとうございました。
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