THE BACK HORNのツアーファイナルに行くのって、もしかすると初めてか?そんなことはないか?いや、そんなことあるかもしれない、ということを思いながら仙台へ向かう。改めて25周年おめでとう、という気持ちで胸を膨らませながら。
10月から始まった共鳴喝采というツアーが、2023年12月16日にとうとうファイナルを迎えた。2024年3月23日に共鳴祝祭のフィナーレが残っていると分かっていても、共鳴喝采というツアーはこの仙台公演をもって一区切りがつく。そう思うと、なんだか物悲しい気持ちもあった。
2ヶ月という期間ではあったけれど、さまざまな街でTHE BACK HORNを観ることができたという体験も相俟って、今回のツアーは個人的に非常に思い入れがあるものになった。たしかに2ヶ月弱という決して長くはない期間ではあるけれど、自分の心境になんらかの変化をもたらすには十分すぎる時間と十分すぎる経験を重ねたことは間違いない。
思えば、かつての私は、行けるだけのライブに行くにはどうしたらいいのだろう、という疑問を抱いていた。まさか自分が「行けるだけのライブに行く人」を体現できるとは、当時は露ほども思わなかった。
身も蓋もない言い方をすれば、「行けるだけのライブに行く人」になるためにすることは、ライブに行くことをとにかく最優先に据えるだけだ。行くか、行かないか、突き詰めれば、その二択でしかない。たしかに、チケットが取れないとか、諸般の事情は身に染みて分かっているつもりだが、とどのつまり、行くか行かないか、という答えに収束する。
とはいえ、答えが明確なことですらできないことは往々にしてある。今にして思えば、分かっていてもできないことがこれだけ多くある世の中で、分かっていることだけを無心に選択してきた1年だった。大好きなバンドが、私をここまで連れてきてくれた。
さて、述懐はこれくらいにしておこう。
ツアーファイナルのセットリストは福岡とほぼ同じだった。「瑠璃色のキャンバス」と「空、星、海の夜」が入れ替わりだったことに加えて、ダブルアンコールで「シンフォニア」を演奏してくれた。
「サニー」の怒号とともに会場全体が圧縮される。凄まじい熱量だ。押し潰されそうになりながらも光をこの目が捉える。見落とすことなかれ。これが、命だ。感無量なことを挙げればキリがないけれど、その一つには、ツアーの数だけ「サニー」が開幕を告げる場に立ち会ってきたことがある。
「希望を鳴らせ」と初めて焚き付けられたとき、私たちはその鳴らし方を十分には知らないでいた。改めて声出しが解禁されて、希望がどんなふうに鳴るのかを改めて肌で実感できた気がする。希望の鳴らし方を教えてくれてありがとう。
聞くところによると、12月16日は「ブラックホールバースデイ」のバースデイだったそうだ。「ブラックホールバースデイ」がちょうど17歳を迎えた日にこの歌を聴くことができたのは、胸に迫るものがある。何にも代え難い熱さだ。
「罠」ってやっぱり痺れるほどかっこいい。この曲は、私がTHE BACK HORNに出会ったばかりの頃に発売された曲だったこともあって、なんとはなしに当時を思い返しては懐かしさに首を絞められる。まったく色褪せることがない鮮やかさを湛えた一曲だ。
少しだけ押し合いが緩やかになってきた頃だったので、ゆったりと「生命線」を聴くことができた。思えば「生命線」は折に触れてライブで聴いてきた曲の一つだと思う。それでも、その一回一回が代え難いほど特別だから、毎回呆然と落涙しているような気がする。「その心が世界」1だよね。ここで見たのは、痛いほど美しい世界だ。
「フェイクドラマ」が始まる前に、栄純と岡峰さんが戯れるようにして弦楽器を鳴らしあっているところが好い。「フェイクドラマ」をこんなにじっくり聴くことができるというのも今回のツアーの醍醐味のひとつな訳で。おかげさまで、たっぷりと堪能したよ。
堪能できたと言えば「ひょうひょうと」も例外ではない。血管を流れるのは燃えるような血液、その躍動を泥臭く描き出す「ひょうひょうと」という歌。その有り様は、おそらく「ひょうひょうと」という言葉からは程遠いところにある。だが、そのかけ離れた様子が何よりも美しい。滾る命をこれでもか、というほど享受した。それでも続く日々を泳ぎ切るための讃歌。
福岡公演でも同じことを思ったけれど、「シュプレヒコールの片隅で」のライトが稲妻のようにチカチカしていて、趣向を凝らしている演出に拍手喝采である。終盤に向かって、今か今かと合唱を待ち構えるところが好い。ステージ上にいた4人もなんだかそれを穏やかな表情で見渡していたのが印象的だ。そういえば、この歌に限ったことではないけれど、山田将司がギターを手に取ると、何がくるんだろう、といつも以上にワクワクしてしまうのはTHE BACK HORNあるあるの一つではないだろうか。
メロディオンを持つことは、すなわち盛大なネタバレを意味する「ヘッドフォンチルドレン」。「ヘッドフォンの中になんて救いはないよ」2と言えども、ライブに勝る音源はなかったとしても、生き延びてくるにはこの音源が徹頭徹尾必要だった。ヘッドフォンの中に救いを求めるしかなかった。多分それは、この歌を作った彼らが最も痛感していることなのではないだろうか。
このツアーだけではなく、折に触れて再会できることを願ってやまないのは、「最後に残るもの」という曲だ。THE BACK HORNはファンをとにかく大切にしてくれるということを改めて痛感した。私たちに向けてそうしたメッセージを放ってくれたことは、どれだけ有難いことだろうと、その稀有な幸福を噛みしめずにはいられない。同じ時代に存在してくれたこととか、出会えたことそれ自体に、よかったと、私自身もこれから命ある限り実感するに違いない。
「空、星、海の夜」って、言うなれば魂の結晶だ。噛み締めるように歌われた歌を、心にそっと忍ばせる。歌が導く先に何があるのだろう、と思うと、未来があるってことも悪くないなって思えるんだ。魔法みたいだ。音楽って。
今更だけど、「枝」のときって4人全員が楽器を持っているんだよね。マイクスタンドに向かって噛み付くように歌う山田将司が思い起こされるからこそ、4人の静謐な佇まいは、一層のこと胸に迫るものがある。このうえなく「枝」を堪能できたことも、今回のツアーで味わった贅沢の一つである。
「シンメトリー」ってこの曲そのものが光みたいなもんだけど、光に向かって手を引いてくれるようなやさしさが何よりも眩しい。「シンメトリー」がお祝いの歌にも感じられたのは、山田将司のMCを聞いたからだろうか。あのとき紡いでくれた言葉が、光のままずっと灯っている。
このライブは、たしかにTHE BACK HORNが25周年を迎えてお祝いしてもらう場ではあったけれど、お互い今日まで生きてきたことを祝うライブでもある。そういうライブをこれからも続けていきたい。
しっとりした曲ゾーンと盛り上がる歌ゾーンをちゃんと分けたセットリストを組んでくれてありがとう、という気持ちが強い。「戦う君よ」の開始は「さらなる熱を灯せ!」という合図でもある。ここから最後まで「コバルトブルー」、「太陽の花」という具合に一気に駆け抜けていった。光と熱が横溢するこの時間は、エネルギーを交換するためのかけがえのない瞬間だった。
やっぱりライブっていいよな、って、終わってみれば至極シンプルな感想しか残らないんだけど、やっぱりそれに尽きるのかもしれないな。
アンコールはお馴染み「刃」と「無限の荒野」。次がいつになるとか、そういう未来じゃなくて、欲しいのは今以外にはなかった。今ここにある現在を心残りなく楽しむ、楽しみ尽くす、そういう心意気で思い残すことなく熱に溶ける。
だから、ダブルアンコールで「シンフォニア」を歌ってくれたことはとてもうれしかった。正直なところ、ファイナルだから、ダブルアンコールを期待していたのは事実なんだけど、それが本当になるって、やっぱり胸がいっぱいになった。
同じ場に居合わせて、熱を共有して、それが、その繰り返しこそが、自分が生きていることを改めて実感させてくれる契機にほかならない。こうした積み重ねは、自分自身の精神を耕し、心を構成する一部分として血肉になって取り込まれていくのだろう。だから、この営為は、何が何でも手放してはいけないし、これからも、ほかでもない自分のために、大切にすべきことだと銘記する必要がある。
2ヶ月弱という期間ではあったけれど、思いもしないことに気付けたり、大切なことを再確認できたりと、とにかく尊い時間を過ごせた。それだけでも、悪くない一年だった。
ツアーが終わってからほどなくしたころに急に込み上げてきた寂しさも随分と和らいだ。寂しくなったり、恋しくなったり、何かと忙しない心にでくわすことになるだろうが、まずはこれらの思い出をできるだけ長く留めよう。汝は美しい。
共鳴喝采ツアー、完走お疲れ様でした。25周年、本当におめでとうございます。
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