福岡、鹿児島、福岡という動きをしながら迎えた九州最終日@福岡はこれまで以上に暖かい日だったので、何も羽織らず半袖だけで娑婆に舞い降りることにした。12月に半袖で出歩くなど誰が想像しただろう。
開場前に時間があったので、知らない人の展示会を見に行った。絵は、やっぱりよく分からない、というのが正直な感想だ。
開場後に印象的だったのは、ライブハウス側からダイバーに関する注意事項が告げられたことである。ダイブが発生したらスタッフが手を挙げるので、観客は頭を下げるようにしてほしい、とのことだった。
こうした呼びかけを聞いたのは初めてだったので、ライブハウス側の気遣いには頭が下がる。ちなみにこの日の公演ではダイブは起こらなかった。
この日のセットリストは、「With you」以外は盛岡公演と同じだった。いついかなるときも〈この日のライブを観ることができてよかった〉と痛感することに相違ないのだが、それでもこの日のことは、取り立てて記録しておかなければならない。
心の底から、この日のライブを見ることができてよかったという気持ちがこみ上げてきた理由を紐解いてみる。
5曲目の「生命線」を歌い終えたころ、まるで20曲くらい歌ったのか、と感じさせる声を耳にする。それは歌い手である本人も自覚していたことで、珍しくそのことに言及したことにも驚いた。
「こんな声だけど、絶対にがっかりさせないよ。」と、颯爽と言った山田将司は、歌うというその行為ひとつで、その言葉を確固たる事実に塗り替えた。凛とした矜持を垣間見た瞬間だった。
声が掠れているのは紛れもない事実だったが、その掠れを唯一無二の味にして、それぞれの楽曲たちの違う表情を魅せにきていた。それは、今ここでしか聴くことのできない音楽で、今の彼らだからこそ放つことができる音と私たちの共振だった。
私たちは、今、ここで、同時に、生きている。脈打つような感覚は、ザラザラした手応えとともに、これが現実であることを突きつける。私たちは、生きている。
涙を流すことさえ惜しくて、どうしたって、目が離せなかった。
とくに、「最後に残るもの」、「瑠璃色のキャンバス」、「枝」という曲順には胸が軋むような思いがした。次に、アレがくる…のでは…なんてザル心構えしかできていなかったので、予想通りに情緒は揺さぶられた。この流れは致し方ない。情緒などいくらでも揺れるがいい。開き直りも甚だしい。
ひときわ胸に迫ってきたのは、「枝」という曲である。「枝」はただでさえ一等大好きな歌なので、今回のツアーに行った数だけ「枝」を聴ける喜びに私はすっかり陶酔していた。そんな「枝」が、横溢する気迫とともに奏でられたとき、私は仰視しながら立ち尽くすほかなかった。
「枝」を聴くと、ほとばしる命を特等席で眺めているような心地になる。そこでは、叫びと命は等しいものとして立ち現れる。ここで聴く叫びは命だということに、唐突に合点がいく。
心が震えるあの感覚は、感動だったのだろうか。それとは少し、違うような気がする。堂々巡りに彷徨う。
今となって思うのは、あのとき感じたのは、感動ではなく痛みだった、ということだ。あの「枝」は、祈りも、願いも、感動も通り越した痛みだった。剝き出しになった命の叫びだった。だから、痛かった。
THE BACK HORNの楽曲のなかでも「枝」は、とくに心に肉薄する歌である。無常を突き付けられてもなお生きていこうとする姿は、痛々しくもたくましい。こうした相容れない要素が同席するとき、どうしようもなく惹かれることが多い。
それは、なぜか。定かではないが、その理由は、割り切れなさを愛おしく感じるから、ということに起因していると思う。割り切れないことには不安を覚えることもある。それなのに、なぜ愛おしいと思えるのだろう。その理由を考えてみたい。
割り切れないことが不安なのは、端的に言って〈分からない〉からだ。分けたと思ったのに、分けられない何かがある。そうやって、割り切れないものたちは桎梏となることもある。こうした分別できない蟠りがつっかえることで不安は掻き立てられると言ってもいい。
とはいえ、この蟠りを解剖しようにも、用意されている答えはないから、徒手空拳で探るほか手立てはない。もはやそれは孤独な闘争だ。だから、割り切れないものがある状態は、もどかしい。
そうは言っても、なんとなく惹きつけられること、あるいは、それとは反対にいつまでも影のように付きまとうのは、ままならないことだったり、釈然としないもの、つまりは割り切れないことであることが多い。
たしかに、割り切れるもの特有の歯切れの良さは、効率的に生きるためには必要な要素ではある。有り体に言えば、迷うことなく進む手立てになるし、回り道もせずに済むからだ。
とはいえ、私たちが効率的に生きるだけではいられないのは、ほかでもない私たち自身がよく知っていることである。であれば、私たちから切り離せないのは、どちらと言わずとも割り切れないもののほうである。
当たり前のことだが、割り切れないものを見つめることは、割り切れないものに根気よく向き合うことでしか成り立たない。割り切れないものに向き合うということ、それは、分節しきれていないことを、どうにかして分けてみよう、と試みることでもある。
どうにか分節したい気持ちを裏返せば、そこには腑分けできていない感情があることが分る。割り切れないものに言葉をあてがおうと足掻く姿は、ままならなさの渦中にあって活路を見出そうと必死になっている姿とも言い換えられる。
これは、孤独な営為によって結実する道のりにほかならない。
だとすれば、割り切れないものの正体とは、なんとかして手元に引き寄せた答えのことである。言い換えればそれは、そのひとでしか歩むことのない軌跡を示し、独自に編まれた言葉を意味し、藻掻きながらも進もうとした気概を表す。これは、そのひと固有の生き様にほかならない。
だからこそ、この割り切れなさに対して愛おしさがこみ上げてくるのだ。
繰り返しになるが、割り切れないものは、もどかしい。答えが見つかるまで、根気よく言葉の森を彷徨うことになるからだ。それでも答えを手繰り寄せようとするのは、やむにやまれぬ姿にこそ宿る生命力である。
自ら掴みとった答えのもと、命を煌々と燃やすその姿に、心が打たれないわけがない。割り切れない痛みこそ、生きていることの証だ。
心という心が震え、魂は底から呼応した。この日のTHE BACK HORNは、気力と気迫が重なるところでしか観ることの叶わない景色を見せてくれた。それは、なんと壮観だったことか。
心が動くのは、きっとこういうときなのだろう。寸分たがわぬ精巧さを再現しただけではきっと味わうことのできない生きた音を、生きた熱を、本物の声を、彼らはたしかに分け与えてくれた。
それは、命を取り出して、切り分けてもらうような瞬間にほかならなかった。
光を浴びた熱狂は、命の叫び、魂の共鳴を照らす。彼らの咆哮はいつまでも残響する耳鳴り、一瞬の刹那に閉じ込められた永遠だった。残像として残り続ける命の輪郭に、もう少しで触れることができそうで、でも、それは叶わなくて、それを理解していてもなお、光に手を伸ばし続けたいと心底思った。
あの日、命の一端をこの目で捉えたのはたしかだった。だから、この日のライブを観ることができて本当によかったと痛感したのだ。
忘れてしまうことが常だとしても、否、常だからこそ、唇をギュッと噛み締めて思うのは、なんとしてでも残したいと、一瞬のうちに託された欠片たちを、できるかぎり手放すまい、ということである。
水面に翻弄される一枚の葉、ひょっとするとこれは、それよりも脆弱かもしれない。それでも性懲りもなく、往生際悪く、悪あがきをする。今日生きたことを、忘れないために、一石を投じ続ける。
そういえば、7日のライブで秋田ひろむも珍しく声が掠れていて、稀有な夜でラッキーだと思っていたら、10日のライブでは山田将司も掠れていて、不思議なシンクロニシティを体験した、と思ってしまったけれど、これはさすがにこじつけが過ぎるかもしれない。
なにはともあれ、至福のセミファイナルをありがとう。
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