【ライブ記録】THE BACK HORN 25th Anniversary「KYO-MEIワンマンツアー」〜共鳴喝采〜@20231208 鹿児島CAPARVO HALL

THE BACK HORN
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この期間は、ちょうどイカれた誕生日会~セルフプロデュース~の真っ只中のため、前日に到着した福岡を発ち、私は鹿児島へ向かった。ちなみに、この翌日にはまた福岡に戻る予定を組んでいた。破天荒な旅程を完遂できたのは、刹那の勢いに身を任せて生きているからといって差し支えない。

さて、THE BACK HORNのライブがマイお誕生日と重なるのは、うれしいことにこれで2回目である。前回は2016年だったと記憶している。誕生日に重ならずとも、大好きなバンドのライブを観ることができるのは至福の時間である。365分の1が偶然重なった喜びは、ありあまる僥倖にほかならなかった。

今回のセトリは、札幌のときとおそらく同じである。1か月も経っていないのにもはやなつかしさがこみ上げてくる。

欲を言えば「ブラックホールバースデイ」を聴きたかった。とはいえ、これを言うのはフライングではあるけれど、「ブラックホールバースデイ」のバースデイである12月16日に「ブラックホールバースデイ」を聴くことができたのだから、そっちのほうがうれしい出来事だった、なんてことを今となっては思う。

身も蓋もない言い方をすれば、何を聴くことができても、本当にうれしいと思っているから、何かにつけて幸福なハッピークソ野郎である。

さて、12月8日、鹿児島でのライブについて。札幌と同じセットリストだったことを理解できるくらいには、ようやっと曲順もなじんできたようだ。それと同時に思うのは、全体がよく見える心地がする、ということだ。

もちろん、物理的にというよりも、精神的に、である。実際にはめくるめく変わる情景を仰視しているわけだから、決して広い視界ではないし、この目が捉える景色にもかぎりはある。

だからこそ、決して忘れまいと、脆弱な記憶装置を叩き起こすようにして喝を入れる。瞬きすることも惜しいと思うくらいに、情景を焼き付ける。

たとえば「悪人」の「重力よさらば」1あたりで両腕を真っ直ぐに広げる山田将司の姿は、光の塩梅で十字架にも似たシルエットとして黒々と浮かび上がる。札幌のときにも目の当たりにしたこの光景をなぞるように、克明に反芻するような感覚に陥った。

一言一言を大切に語りかけるようにして歌われることから、「空、星、海の夜」は、それを奏でる彼らにとっても宝物みたいに大切な歌であることを痛感する。押し寄せる荒波のような情動と、こぼれる涙のように切実な希い、そうした噛み切れない心の動きを音に乗せて、うねりとなって心に響く。

「歌が導くだろう」2という言葉はもはや無意識理に心に根付いているから、歌によって導かれたどこかの場所に、知らず知らずのうちに辿り着いていることもあるにちがいない。たとえば、この日、この場所で彼らを目撃したことだって、歌に導かれた先の出来事だと言っても過言ではない。

隙は好きだということを聞いたことがあるけれど、心が軋むような歌たちとは対照的に、心をゆるませる作用をもたらす彼らのMCも、隙のひとつと捉えることができるかもしれない。

俺たちを音楽家に戻してくれてありがとう、と朗らかに笑う菅波栄純。九州は縦に長いと表現する菅波栄純。このライブ前に岡峰さんが共有してくれた、見事なまでの日本地図 by 菅波栄純があまりにも衝撃的すぎて、ひととひとの間にあるちがいを尊く思った。

ふとよぎったのは、ひととして大切なものとは何か、ひいては、自分が大切にしたい価値観は何か、という問いである。

ライブによって触発され、そこで発露する情動が心のなかを照らし出す。そのとき、閃光のようにチカリと光る欠片があることに気付く。おや?と思うことが契機になり、ライブで観てきたことや受け取ったもののなかから、気になった理由を探し出すようになる。

今回を例に挙げれば、先の問いに対して切実に思ったのは、私は倫理を大切にしたい、ということである。

たしかに、類を見ないほど、私は私のことばかりになるエゴの極みを司る人間なので、窮地に立たされれば一気に剣呑になるだろう。とはいえ、どの口が言うか!と言われようとも、根元にあると思いたいのは、隣にいるのが見知らぬ人でも、もう二度と会うことはなかろうとも、自らの振る舞いをめぐる善悪や正邪が変わることはない、ということだ。

結局のところ自分が一番かわいいのは痛感している。そもそもの動機だって、〈良心〉に背くことをしたくないのは、ほかでもない自分が自分を許したいからだ。

たとえそれが誰かのためを思った振る舞いであっても、根底にあるのは自分に顔向けするための選択には変わりない。それでも、その誰かを無為に傷つけたり、不快にさせるよりはマシだろう、と、エゴ全開ではあるが、できるかぎりで、善悪の判断を誤らないようにしたい。

たとえば、ライブのときって、余裕がなくなるのはお互い様だからさ、みんなできるかぎり前で見たいし、各々の楽しみ方をしたい。隣にいる他人は、おそらくもう会うことはない他人だけど、そのひと一人ひとりには名前があってそれぞれの人生がある。それは、忘れちゃいけないことの一つだ。

さて、様々な偶然が重なって生まれた12月8日を穏やかに過ごせたことだけで、本来は筆舌に尽くしがたいくらい尊いことで、そんなことを、根元の部分を、改めて確認する営みも必要なことだと噛み締めている。

何が起こるか分からないのはお互い様だから、と、MCのときにそんなことを山田将司は静かにこぼしていた。これだけ、周囲で理不尽に飲み込まれる事態を目の当たりにしてきているというのにもかかわらず、何度言っても、何度銘記しようとも、切実な響きを伴うのは、ともすると〈その時〉だけになりやすい。

失いたくないからこそ、失う前に、消えてしまうその前に、現存する幸福をギッチリ抱きしめておかないと、悔やむことになるのは、紛れもなく自分自身だ。だから、たのむよ、私。

いつが最後になるか分からない、なんてことを考えたくはないけれど、そうした気持ちがひとひらでもあるならば、対峙する覚悟が変わってくる。大袈裟だけどさ、私は、残りの人生を賭けて向き合いたいんだ。私が愛しているものたちと。

鹿児島で見た夕焼けはやけに胸に迫るものがあって、桜島の佇まいに壮大な自然を体感し、次の日も移動だというのに、相変わらずギリギリアウトで酒気帯びるなど、ライブじゃなくても改めて訪れたい街を少しだけ堪能してから福岡に戻った。

  1. 菅波栄純「悪人」、2015年[]
  2. THE BACK HORN「空、星、海の夜」、2001年[]

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