アンコール最後の曲が終わるとほぼ同時に、山田将司はその場に座り込んだ。まるで、安堵の波が一度に押し寄せるかのように、張り詰めていた気が一瞬にして解けるようにして。
その姿を目の当たりにしたとき、体力を振り絞り、気力のかぎり歌ってくれたからだということに合点がいき、俄然愛おしさがこみ上げてきた。胸の奥をギュっと掴まれたような気分になって、泣きそうになる。
前のめりになるあまりバランスを崩してステージから落ちそうになったり、実際に落ちたり、マイクが宙から降ってきたり、この日のライブは、いつもに増して莫大なエネルギーを発するものだった。
THE BACK HORNは、己の命を切り分けて音楽を鳴らし続けている。これはたしかに比喩だが、比喩とは思えないほど、鬼気迫る様相で彼らが魂の歌を届けてくれることはまごうことなき事実である。そういう意味でも、命を分け与えてもらったと、繰り返し思わずにはいられない。
新旧の楽曲が緻密に入り混じり、命の正体に真っ向から向き合うような夜だった。魂が呼応するには十分すぎる理由が、あの空間には充溢していた。
1曲目の「サニー」が幕を上げると同時にフロアからは歓声が沸く。開始2秒で空間のすべてを掌握するこの歌は、ほとばしる熱を携えながらも凛としている。
それから「希望を鳴らせ」、「ブラックホールバースデイ」、「罠」と立て続けに打ち鳴らされ、新旧入り混じる曲の並びに歓喜の叫びは渦を巻き、熱という熱が放出される。ひたすら、アツい。
思えば、札幌での3曲目は「声」だったので、予想外の組み立てにムフフとなったのはここだけの話である。
「フェイクドラマ」や「コワレモノ」は、このツアーでは欠かせない楽曲である。「コレワモノ」と言えば、おもむろに口を開いた松田晋二のMCが一等印象深い。「水を差すようで悪いけど」と語った先に続くのは、『神様だらけのスナック』でコールアンドレスポンスをやるのって、すごい変だよね」ということ。演者も会場内も笑顔が伝播する。
たしかに、異様な盛り上がりを見せるこのコールアンドレスポンスは、他に類を見ない濃厚な謎に包まれている。なぜスナックなのか、問えば問うほど禅問答に等しい。
が、なによりも、THE BACK HORNだからこそ創り出せる異様なこの世界は、このうえなくクセが強い以上に、最高に心地よい。
菅波栄純の煽り、もとい指導のもと繰り広げられるさまは、客席から参加している観客にとっても圧巻である。弛緩と緊張がほどよく繰り返されるTHE BACK HORNのライブは、これだからたまらない。
「生命線」と「ひょうひょうと」を一度に聴ける夜があるというのは、今更ながら途轍もなく贅沢な過ごし方に分類されるにちがいない。熱情、という言葉が脳裡を掠める。
何はともあれ、〈生きていかねばならぬ〉と、やおら肚落ちする。ある意味でこの納得は前向きな諦めとも言えるかもしれない。〈生きていくしかない〉と、そのほかの退路を絶つ、という意味を孕んでいるからだ。
ピアニカあるいはメロディオンの鍵盤に、目印として貼られているテープが愛おしい。楽器が揃ったとき、次に待ち構える曲が何であるか合点がいった青年は「えっ、ヤバッ」とハチワレさながらに心中を吐露していた。「ヘッドフォンチルドレン」。何回聴いても五臓六腑に染みわたる。
それは「最後に残るもの」も「枝」も同様だ。
何度聴いてもうれしい。何度聴いても喜びに満ち溢れ、笑顔はいたるところに咲き、ときに落涙して視界が霞む。飽きもせずに心は繰り返し反応し、胸が高鳴る。そういう瞬間に何度も立ち会っては、情動を噛み締める。俺たちは、生きている。そうしたたしかな呼応を感じずにはいられなかった。
キラキラと跳ねるような「シンメトリー」が一等眩しい。改めて聴くと本当にいい歌だなァとしみじみ感じる。リリースされた当時よりも、今のほうがなんだか響く。そういう曲って、思いのほかあったりする。「シュプレヒコールの片隅で」もその一つかもしれない。
より深く好きになる、というか。折に触れて聴くことによって、愛着がさらにわく、という変化もあるかもしれない。
熱は保ったままたゆたう穏やかな時間を挟み、終盤に向かう。とどまるところを知らずに畳みかけられる「戦う君よ」、「コバルトブルー」、そして本編最後の「太陽の花」。最後まで一気に駆け抜ける速度に追いつきたい一心で、数多の拳は高らかに突き上げられていた。
ギュっと詰まった空間はあまりにも濃厚で濃密で、距離はもちろんあるけれど、それを超えていくような、距離はさして問題ではないかもしれない、と、ふとそうした感覚を覚えた。
もちろん、物理的な距離を縮めるとか、そういうことではなくて、心の距離とでも言おうか、いや話したこともろくにないくせに、何を言っているんだ、という話なんだが、なぜか、どうしても、ライブをとおしてちゃんと繋がっているって、思わずにはいられなかった。
的外れなエゴ極まりないけれど、共有ってこういうことなんだって、心底思えたというか。時間も空気も、熱も、雨も、命それ自体、それらすべてを、時を同じくしてたしかに感じたということ、それが核心で、それだけが確かなことで、烏滸がましいけれど、そんな心境に至ってしまった。
冷気を孕んだ空気と雨が包む夜の盛岡で心地よい疲労感に抱きかかえられながら、ゆるりと家路に向かう。時速200kmの鉄の塊に乗って南下するさなか、夜の思い出を例のごとく酒に溶かして飲み干した。肴はライブで十分すぎるくらいだった。
この日の出来事を、見た景色を、受け取った喜びと、ありあまる幸福を反芻する。願わくば、できるだけ永く私の体内に留まってくれ。また、冬が来るから。冬に、また会いに行くから。
今回もうろ覚えのセトリ。いろいろ抜けてそう。でもちゃんとしたセトリは今はまだ見ない。ただの意地っ張り。
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