『最後に残るもの』を聴いたあと、シャッフル THE BACK HORNをセットして新幹線に飛び乗る。怒涛のシャッフルには毎回その選曲の鋭さに打ちのめされるので、劇薬さながらのシャッフルは、普段からしてみれば禁じ手と言っても差し支えない。
が、今日は特別だ。なぜならば、THE BACK HORNのライブに行くからだ。Bluetoothでペアリングすると、チカチカと青色に光る私のイヤホンがあまりにも可愛い。まさしく、ワイヤレスイヤホン、さいこー!という気持ちである。
ところで、ワイヤレスイヤホンが快適すぎて忘れかけていたが、イヤホンの片側を誰かとシェアするとしたら、ワイヤレスよりも、断然有線のほうが情緒がある。なぜならば、有線イヤホンは明確に距離を区分するので、もはや逃げ場がないからだ。ジリジリと身を焦がすのは、流れ込んでくる音楽か、それとも逃れようのない距離か。分けたイヤホンで同じ曲を聴く。なんと、趣があることだろう。
かくいう私は、そんな情緒にニアミスすることも、ご縁も一切なく、一つのイヤホンで一つの曲を無心に聴いていた。まあ、そんなことはどうでもいい。
余談が長くなってしまった。
水戸ライトハウスでの凄まじいライブから早くも1か月近くが経つ。あの日のセトリを完全に憶えることはできなかったが、もちろんすべてをまっさらにできるわけもない。1曲目、怒号の「サニー」から幕開ける25周年の喝采を、今日も今日とて心待ちにしていた。
爆裂シャッフルは新幹線のような勢いで名曲を次から次へと選び出す。名古屋を目前に、シャッフル THE BACK HORNが選曲したのは「サニー」。
馴染みのない街だと、平衡感覚がいつも以上にままならなくなるので、他所ではできるだけ音楽を聴かないことにしている。つまり、ここで聴いた「サニー」は、ライブの直前に聴いた最後の曲、ということになる。まるで清冽な夜を確信させる粋な選曲に、思わず笑みがこぼれた。
かくして、この日、脈打つ「サニー」を改めて目撃することになる。
最近の曲から、数年、あるいは十数年前の曲、さまざまな軌跡を歩んだ楽曲たちによって織り成される愛おしい時間。畳みかけるような勢いで、怒涛の音楽たちが次々と展開される。
息も絶え絶えになりそうな速度で、めまぐるしく音楽は掻き鳴らされ、同時に滾る熱量が放出される。それは、演者からも、観客側からも、同時に、である。
好きな人たちが楽しそうにしていて、なおかつ喜びを感じている姿を終始目の当たりにして、このうえない喜びを享受していると、思わずにはいられなかった。
これほどまでに生きる力をもらっているのは、我々観客であることは明らかなのに、観客側から演者は力をもらっているらしい。
そうしたやり取りのことをエネルギーの交換だと、いつしか山田将司は語っていた。この場所でしか編み出しえない営みが、たしかに存在している。圧倒的な複数を構成する一要素として、あの場所に居合わせられたことを、ただ幸福に思う。力の一端になれているのだとしたら、これほどまでにうれしいことはない。
たしかに、私が居ようと居まいと、世界は規則正しく廻るし、今日だろうと、数日後だろうと、彼らのライブは最高にちがいない。それでも、問題なのは私の存在・不在ではなくて、節目節目で、THE BACK HORNのチカラになれているのだと、屈託なく思えるという事実である。
その健全さによって、精神は耕されていくような気がしている。
こうした意味でも、自分がここに居てもいいのだ、と思える場所は、THE BACK HORNの音楽が鳴っている場所、と表現できるかもしれない。
思い上がりが甚だしいといえども、THE BACK HORNの音楽を聴いていると、不思議な自己肯定感に包まれる気持ちがするのは事実である。何ができるとか、どう貢献できるとか、そうしたあらゆる有用性を捨て置いて、ただ彼らの音楽を聴くことや、ライブに行くという振る舞いが、不思議なことに自身の存在を肯定することにつながっていると、烏滸がましくも感じている。
徹頭徹尾、光だ。
THE BACK HORNが鳴らすライブの情景を表すに相応しい表現があるとすれば、それは、光。これまでも、繰り返し彼らを〈光〉と表現したいと吐露してきたが、今回も、改めてそのことを確信した。たしかに、物理的に煌々とライトを浴びていることは間違いないけれど、それだけではない光が、ここでは溢れている。
ある意味では、彼らのMCも穏やかな光だと言えるかもしれない。ライブのときとは対照的な和やかな時間、愛さずにはいられないだろう。
たとえば、山田将司が知っているであろう名古屋のいいお店をやたらと知りたがる松田晋二。ドラマの名前が思い出せそうで思い出せず、思い出した名前を言ったら思わずウケを取ってしまう菅波栄純と鋭いツッコミが数々のツボを押す岡峰光舟。いい話をする山田将司。
いつ見ても、なんかいいなァ、という気持ちになれるので、THE BACK HORNのMCは貴重。
ところで、公演によってセトリが異なるのではないか、という期待をほのかに抱いていたさなか、一部の曲が入れ替わりになっていることが分かり、この先のライブが一層楽しみになった。次の公演では、何を聴けるのだろう。どのパターンだろう。
そういう計らいも含めて、次のライブが一等待ち遠しい。これまで足を運んだライブは、すべてのアーティストを合わせれば、きっと三桁を越えている。が、ライブが始まる直前に湧き上がるあの興奮は、きっと冷めることはないのだろう。たとえ何百回、何千回と重ねようと、〈そのとき〉はいずれも一度きりしかないからだ。
こうして、ライブとは決して替えの利かない時間であることを、改めて痛感する。ライブってあっという間に過ぎていくから。五感をフル動員させても、やっぱりすり抜けてしまうことも多いから。
すべての瞬間が、言葉通り瞬く間にめくるめく切り替わっていく。それでも、だからこそ、憶えていたい。そればかりを思う。
潮の満ち引きのように、心が満たされることもあれば、心に溜まった溜飲が下がることもあるから、ライブに行くことは、自分の定点観察にもなる。THE BACK HORNのライブに関して言えば、言わずもがな圧倒的に前者の要素を多分に含んでおり、これでもか!というくらいに、自分の内側に沸き起こる温かい感情を思い知らされる。
きっとこの感情は、普段はおそらく沈潜しているのだろう。そこにいるのが当然な顔つきをして眠っているにちがいない。この感情にはすっかり慣れ切ってしまったから、目新しさもなければ、デフォルトで高熱であることすら忘れている。
思い出す引き金になるのは、ライブである。ライブに立ち会ったとき、眠りから覚めるようにして、この熱がさらに滾ることに気付く。この感情は、今や自分とほぼ同義である。
自分のなかに、途轍もなく大きな気持ちが潜んでいることが、改めて分かる。ライブは、だからすごい。
思えば、THE BACK HORNが好きだ!という気持ちが自分にとっては呼吸と同じくらいに当然になっているので、あえて強調もしなければ、普段からこの気持ちに目を向けることはあまりなかった。
が、ライブに行くことで触発された精神が、こんなに好きだったっけ…?このうえなく愛!みたいなことを叫びだすので、ライブによって自分のなかにあるクソデカ感情を改めて知ることが多い。言うなれば、これは自分と癒着してる感情でもあるから、こればっかりはもうどうすることもできないな。前向きな諦めと共に生きようぜ。
ところで、こういう感情を、ライブのたびに知ることができるのは貴重だ。自分にはこんなに好きなものがある、と改めて思えるというのは、自分のことを繰り返し肯定していることに等しいから。普段気にも留めてない感情であればなおさらだろう。
ライブに行くということは、単にその場で繰り広げられる音楽を楽しむだけではなく、自分を見つめ直す鏡のような役割にもなっているのかもしれない。
そんなふうに、忘れがちなことを改めて考えるなどして、名古屋のライブも本当に最高だったなァと思って、天むす買って、きしめん食べてビール飲みながら帰路につく。次は札幌!と書き残したところで更新前に力尽きるなど。
うろ覚えセトリ。曲順は違うと思う。曲はこのとおり…かな…あやしい…(頼りにならない)最後の2曲はアンコール。
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