【ライブ記録】THE BACK HORN「KYO-MEIワンマンツアー」〜アントロギア〜@20220708 高松MONSTER

THE BACK HORN
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楽しい冒険譚について記録します。

夢というにはあまりにもどっしりとしていて、現実といえども、にわかには受け止めきれない奇跡に巡り合ったことについて。今でも夢うつつの気持ちでいるのだが、ただ一つ言えるのは、この思い出があれば、絶対に生きていられるということ。

そんな3泊4日の修学旅行(ソロ)。まずは高松でのライブについてしたためます。

四国は初上陸。市街地散策はそっちのけで、海を見に行きました。曇っていたけれど穏やかな瀬戸内海を見ることができて満足。水クラゲがふよふよと浮かんでいて、フナムシがワシャァアアと動いていて、カラスがそのうちの一匹を啄んでいました。

香川に行くと友人に話したところ、『海辺のカフカ』を読んだらきっとアツいよ!なんて勧めてもらったのに、小説を読むときに消費する「ココロ」なるものに耐えきれずに断念。これは余談ですが、松山に行く前に『坊ちゃん』は読みました。

『海辺のカフカ』を読まずとも、アツいぜ高松。これぞライブハウス!というようなキャパシティーを久方ぶりに目の当たりにして逸る気持ちを押さえきれるわけもない。大きなライブハウスとは違って目線の高さが近づく佇まいに胸が高鳴り、血が騒いでいた。

間近で暴れる彼らを眼前にする幸せを一身に受けるということ、そこから躍動する命の勁さなるものに一層圧倒されて落涙。わずかな瞬間に垣間見えた綻んだ表情と、穏やかな視線が届いた先は焼け野が原よろしく燃えていた。

こんなときだからこそ、THE BACK HORNと一緒に過ごすことができて、本当に良かった。尽きない悲しみを完全に取り除くことはできないけれど、痛みを緩和するように、悲しみの疼きを和らげることができるのは、愛してやまない音楽と共に生きているからだと確信している。

こんなときだからこそ、「この『今』を愛せ」1というフレーズが痛々しく突き刺さったし、「生きてりゃまた逢えるさ」1と歌う山田将司にも一層の力がこもっていたような気がした。そうだ、また何度だって会えるのだ。生きていればこそ、生きているからこそ。核心をついた突風は爆速で通り過ぎた。

「光の結晶」が如く眩しくて瑞々しい生命力は、一瞬で過ぎ去っていく今をほんのわずかな時間だけここに引き留めてくれたように感じた。光に向かって何度でも手を伸ばしてみる。

それは山田将司が語ったようにまさに〈エネルギーの交換〉であって、ひょっとすると〈エネルギーの交感〉でもあるのかもしれない。計り知れないほどに大きなエネルギーの塊が脈動し、お互いが生きていくための糧を分かち合う空間が、ここには存在していた。

そんな温かい空間に同席して感じたのは、もしかしたらどんなことでも頑張れるんじゃないかということだ。本当は心がポッキリ折れてしまって、どうにもこうにも身動きが取れない仕事でさえ、もしかすると、どうにか頑張れるのではないか、そんな気がしたのである。

とはいえ、どんなことでも頑張れる気がする、と言ってしまうと、頑張れなかったときに自分を含めたいろいろを責めてしまいそうだから、結局のところ口を噤んでしまう

ただ、たしかなことは、繰り返しにはなるが、この出来事を糧に絶対に生きていけるということだ。〈生きることなら頑張れる気がする〉と断定することは、自分の命に対して最後まで応答する、という意味合いでの〈責任〉を全うすることだと言えるのではないだろうか。

たしかに山田将司が言うように、頑張ったり、無理したりしないと、生きていくことは本当に難しい。それでも、最低限無理して頑張ることが〈生きること〉そのものであれば、私はこれに対して最後まで応答することができると、ようやく肯けるようになったのである。そんな生命力に邂逅できただけでも、大きすぎる収穫であることは言うまでもない。

愛すべき〈今〉に立ちながらも、ともすると過去に引きずられてしまうことがある。先行き不透明な未来や不安を帯びた現在とは対照的に、過去だけは私のなかにその形を一部でもたしかに留めているからだ。

そういえば〈人は思い出をよすがにしていつまで生きていけんの?〉と自分自身にかつて問うたことを思い出した。

それに対する答えではないかもしれないが、今の私だから言葉にできるのは、過去、未来、現在、そのどれもがこの先を生きていくうえで必要な養分になるのではないか、ということだ。

不安を纏う現在、覚束ない未来、そうしたなかで確固たるのは、どうしたって過去の出来事たちだ。だからこそ、拠り所と言える思い出を胸に秘めれば、たぶんきっと生き延びることができると思うことは、否定しようのない事実だと思う。

それでも今回のライブに居合わせたときに感じたのは、ちょっぴり期待できそうな未来に想いを馳せて、現実を希釈しながら騙しだまし生きていくこと、あるいは過去に起こった思い出をよすがとして生き延びること、はたまた現前するこの今を愛すること、おそらくそのどれもに価値があって、自分の座標を定めるために必要な材料になるにちがいない、ということだ。

その座標からしか見つけることのできない定点がきっとあって、それは前に進むための力にもなってくれるはずである。過去に固執してしまうのは仕方がないことで、和解にするにも時間がかかることだけれど、未来や現在に拠り所を見つけることがこれからの自分を支えてくれる柱になってくれるのだとしたら、過去以外に目を向けることだって案外悪いことではないだろう。少しでもいいから、私は視座を高く据えることができつつあるだろうか。

この両手に抱えられるものはたしかに多くはないけれど、欲張りながらも鋭い判断力で大事なものを必ず掴みとって、明日に引き連れていくんだよ。だから振り返ることも、立ち止まることも、見据えることも、どれも無駄足ではない。自分が進むためにはどれも必要な工程で、ゆっくり一歩一歩踏みしめていけば、絶対大丈夫なのだと、やっと胸を張って笑えそうである。

予測のつかない日々にあって、少し先の未来に予定を立てることは、明日を生きていくための活力になる。それは私にとってライブなのだろう。

ライブを目印にすれば、ちゃんとそこまで、生きていけるのは実証済みである。感慨深いのは、一つひとつの目印を通過した後に振り返ってみると、それらが様々な座標を示していることだ。

それらを結んだ線こそ私が生きていた軌跡で、かけがえのない歴史なのだと知る。これは、バックホーンを筆頭に愛してやまない存在から莫大なエネルギーを分けてもらって、成り立った歴史とも言える。これ以上にあたたかいことがあるだろうか。

言ってしまえば、THE BACK HORNと出会えて、共鳴できて、感謝しきれない、の一言に尽きます。とはいえ、彼らを目の当たりにするたびに生じる混沌をどうにかして言語化しては、記憶に留めたいと、横暴にも毎回思うのです。

思い立ったが吉日で無理やりにでも飛び出して正解でした。今日も、いつも、本当にありがとうございます。

  1. 菅波栄純「ウロボロス」、2022年[][]

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