はじめに
結成25周年記念シングルから「最後に残るもの」が先行配信された。初動が遅いので発売日を目前に感想を書き殴ろうとしている。発売日に間に合うか、何と闘っているんだ、所詮自分自身とのひとり相撲だ。と書いたところでリリース日を迎えた。手元に届くのが楽しみである。
それはさておき。
今、私にできること
ありがとうとか、大好きとか、それ以上に心の内を表せる言葉は残念ながら見当たらない。たしかに言葉が大切だと私は繰り返し言っているが、それとはまた別の話である。表現できれば、蟠りは少し解けるかもしれない。が、その言葉を探す以外に、今、私にできることに目を向けたほうがよっぽど幸せにちがいない。
今、わたしにできること。それは、つまり、彼らの歌をただ聴くことだ。
言葉を裏付けるものがあるとすれば、それはおそらく行動だけである。だから、毎日とは言えないにしても、これから先を生きるにあたって、何度でも聴こう。ライブに行くとか、そりゃいろいろあるけど、原初的なのは、聴くこと、それが全てであるはずだ。
不確かな世の中で、3年後も、5年後も、「冷めない熱」1とともに同じ曲を聴いていたい。これから先、見通しがつかないことだって多いけれど、それでもそんなことを思いながら、私は「最後に残るもの」を繰り返し聴いている。
一番聞きたい言葉
初めて「最後に残るもの」を聴いたとき、一糸まとわぬ言葉に撃ち抜かれた。いつも撃ち抜かれている気もするが、それもご愛敬。これは、何百回目か分からない撃ち抜かれた記念である。
彼らの音楽はいつも真っ直ぐに届く。たとえ歌に幾ばくかの歪さがあろうとも、必ず真っ直ぐに届く。だが、「最後に残るもの」はその比じゃなかったことを、聴いていて思った。
何よりもこれ以上ない直球ドストレートの言葉が射貫くように心を穿つ。今、一番聞きたい言葉を、一番聞きたい人たちからもらった、そんな幸せを感じずにはいられなかった。
創った人たちに向かってこんなことを言うのはあまりにも烏滸がましいけれど、そっくりそのまま同じことを、あなたたちに伝えたいと思った。
「出会えて良かった」というこのうえない切実な想いを、きっと誰しもが胸に秘めているにちがいない。それと同時に、これほどまでに簡潔でいて、ずっしりとした気持ちが凝縮されている言葉も、他にはなさそうであることを確信する。
念を押すように「出会えて良かった」1と繰り返し紡がれる言葉は、喜びの雨さながら降り注ぐ。真正面からど真ん中に一撃を喰らう。これは溢れるような愛、そう呼んでいいだろうか。この歌を聴くということは、すなわち愛を受け取ることに等しい、そんなふうに、表現することは、果たして許されるだろうか。
最後に残るものをめぐって
ところで、「最後に残るもの」と語られるとき、自分にとってそれは果たして何を指すのかと、思考を巡らせずにはいられない。
削り落として削り落として、核として胸の奥に表れるもの。意外と気付いていないけど、核心に据えられているもの。「最後に残るもの」に対して抱くのは、こうしたイメージの数々である。
であれば、私にとって、「最後に残るもの」とはなんだろう。
肩透かしを喰らわせるようで悪いが、その答えは、まだ出さないでいたい、というのが本音である。
たしかに、それが音楽、もっと言えばTHE BACK HORNであってほしい気持ちももちろんある。が、あらゆるものが変化することを知っていながら、今それを主張するのは狡い気がしてしまうから、そういう意味も含めて、今はまだ、その答えは出したくない。
まだ、最後を迎えるつもりはないんだ。まあでも、こんなふうに言うのも狡いかな。
そうだとしても、明日も明後日も、1年後も、10年後も、今日と変わらずにTHE BACK HORNを聴いて、大好きだなあと噛み締めたいのは、なによりもたしかな本心だから、ただ、行動で示すことにするよ。
生きていく醍醐味
ひょっとすると、「最後に残るもの」を見出すこと自体、生きていく醍醐味の一つに挙げられるかもしれない。それこそが長い時間をかけて見つけていくもの、そんなふうに考えることが、もしかしたらできるかもしれない。どっちにしたって、今は、まだ、途中だ。
圧し潰されそうな夜が繋がる先の先に、この歌があることを知った。なんか、報われたな、と今更ながらいつかの自分自身に、今の自分自身に言ってあげたくなった。それだけでも生きている価値があった、大袈裟かもしれないけれど、結構本気で思っている。
これからだって、生きるに値する人生であるにちがいない。私は、そう願ってやまない。
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