晴れた昼間の空港は、空に向かう飛行機をぼんやり見上げることができて好きだけれど、夜間の空港も、あちこちの光が点滅していて見ていて楽しい。遠くに見える夜景の光がちらちらと揺れる様を見て、なぜそんな風に見えるのか、疑問に思いながらその場を去った。
様々な言語に絶えず切り替わる電光掲示板を見て、胸の奥をギュッと何かに掴まれた気がした。たぶんそれは私のいつかの過去だ。この場所からあらゆるところに向かうことができるという可能性や、免税店の香水の香りから思い起こされる欧州の風景、それから異国情緒漂う非日常の詰め合わせ、おもちゃ箱みたいなワクワクが空港にはある。
何が言いたいかと言うと、私は空港がとても好きだ。そんな好きな場所にライブハウスがあるとも知らず、非日常に非日常を掛けたようで非常に胸が躍る体験をした。
門田匡陽の姿を見るのはあまりにも久方ぶりである。正直、最近は音楽を聴くことすらしていなかったので、悠久の彼方と思うほどには、現実味が薄かった。
観客席と同じ高さにある舞台を見て、心が跳ねたのを感じた。同じ場所に門田匡陽が居合わせる現実はあまりにも非現実的だったので、どこか夢見心地のまま、一寸先に拡がるステージを見続けていた。
輪郭を掴めずにぼんやりした意識と確かに脈打つ高揚感が同席している最中、楽しそうに演奏する門田匡陽を目の当たりにし、懐かしさや、愛おしさや、喜びだとかの感情が溢れてくるのを感じた。
これは何度も聞いた音楽たち、それらを奏でる聞き馴染みのあるあの音色、もといエフェクターによる加工音、ああ、これは門田匡陽が奏でる音だ、何度も聞いたことのある、あの音色なのだ・・・。
朧げな意識は徐々に鮮明になり、今ここに在ることを強く実感させてくれた。十数年を共にしてきた音が灯台のごとき道しるべになり、現在地を指し示してくれたようであった。
香りが思い出を瞬時に呼び起こしてくれるような現象にも似た感覚、これはプルースト効果というわけではない。ただ、門田が奏でた音が一瞬で今この場所に届いてくれたことは確かで、17歳のときからの足跡が今日まで続いていることに安堵した。
「共有は潜在的な牢獄」1だと彼は歌う。そういえば、共有という言葉は私にとってかつて大切な言葉であったことを思い出した。
誰か大切な人とその場に居合わせられることや、同じ空を見ること、同じ雨にあたること。
同じ場所にいるからこそ同時に味わえる同じ出来事、おそろいの思い出、そうした何にも代えがたい経験を共に有するという意味が、「共有」という言葉にはかつて内包されていたのではないだろうか。それは拓けた必要もなければ、お互いが認識できる程度の距離でよかったはずだ。原初的な喜びを味わうために私は「共有」という言葉を使っていたのではあるまいか。
そう自分に問うてみたものの、今となっては業務上の進捗を確認する以外には「共有」という言葉に出番はない。形骸化されてそれらしい恰好をしているだけの「共有」という言葉に対し、鼻で嗤うことも厭わない自分がいることに気付いて、皮肉なめぐりあわせを感じた。
大切な言葉だったはずなのに、そうした気持ちを忘れて、その気持ちを忘れたことさえもすっかりと忘れていた。まさしく彼が言うように「潜在的な牢獄」と化した「共有」に自ら囚われていたのだ。
かつては存在した気持ちを取り戻すことは、途方もなく困難であるだろう。もしかすると、あの頃の気持ちにはもうなれないのかもしれない。再現できずとも、そういう気持ちが存在していたということだけは、憶えていたいと思う。心残りは消えないかもしれないし、折り合いがつけられることでもないのだろうけれど。
さて、本題に戻ろう。門田匡陽が手がけた色々な楽曲が間髪入れずにかき鳴らされていた。例えば「Bit by Bit」や「ユートピア」を聞く、という至高の贅沢を食らう場面も。
『Most beautiful in the world』は、Good Dog Happy Menのアルバムでは初めて買った作品だったので、ときめいてやまない時間だった。おとぎ話のような楽曲たちは聞いていて微笑みが自然とこぼれるくらいに朗らかで、あの陽気な楽団をとても懐かしく思った。
ユートピアの最後、門田は語るように歌っていた。静謐で、でもとてもしなやかな歌声、それはまるで紙にスッと描かれた一本の線のようで、一切の無駄がなく、いかなる揺るぎをも感じさせないその美しさに戦慄した。一言一言、聞き洩らさないように聞き耳を立てる、そんな緊張感があたり一面に走っていたように思う。
ようこそここへ 獣の花園 罰が当たるまで エゴの実を齧り 踊ろう
門田匡陽「ユートピア」、2006年
それからも音楽は鳴り止まない。とにもかくにも目を瞠ったは、ツインドラムで構える姿勢から期待せずにいられなかった「神の犬」。「神の犬」はいつ聴いても圧巻の一言だ。Poetのライブでツインドラムを目の当たりにしてから、ドラムに魅せられたことを思い出す。
このうえなく躍動的で、弾丸のような衝撃を撃ち鳴らす音。ツインドラムの圧を背負えるフロントマンは、門田匡陽しかいないと改めて感じた瞬間だった。音の衝撃とはあまりにも対照的な門田の佇まい。すっくと立つ姿は飄々としていて、あのツインドラムを背にして、ポケットに手を突っ込んだまま歌うのは、門田にしかできない芸当にちがいない。
圧巻のパフォーマンスを目の前にして、いつだかのライブで、仁王立ちをしながら「神の犬」を歌った門田を思い出した。
本編の最後を締めくくったのは「MoYuRu」。咆哮にも似た彼の歌声はとても勁く、それでいてとても温かいやさしさを湛えていた。彼から湧き上がる歌声を全身で受け止め、そのあとの静寂を飲み込んでから万感の拍手を讃えた。いつもいつも頭を深く下げる門田の姿がとても印象的だ。
これまでも何度も感じてきたことではあるけれど、彼の歌は、やはり賛美歌なのだと改めて思った。洗練された洒脱な音楽がそう思わせているわけではないだろうし、ましてや彼の歌は、神を讃える歌でもない。ただ、祈りをささげるような、命なるものを歌うさまが、そう思わせたのかもしれない。
限られた時間ではあったけれど、門田匡陽が手掛けたあらゆる方面の楽曲を聞くことができて、本当に本当にうれしかった。六弦を奏でる彼はまるで相棒と戯れているようで、本当に楽しそうにしていて、それがとにかく愛おしかった。
今更だけれど、私は門田が人差し指を立てながら歌う姿が一等好きだ。あの姿を見ると、理由は解らないけれど、なんでも大丈夫だと思えるからだ。遥か昔に遡ることにはなるが、「楽園の追放者」の最後でピシッと人差し指を立てて歌ってくれたから、それがおまじないになっているのかもしれない。
大人になるなよ 無駄に許すなよ 二度と日和るなよ
門田匡陽「楽園の追放者」、2015年
君は独り 絶対独りで無敵さ
何年経ってもいつでもいいから、また突然「ライブをやるよ」と告知して、フラッとステージに舞い降りてほしい。そのときには「やぁ」と右手を振りながら飄々と笑っていてほしい。
圧巻のステージでした、本当にありがとう。胸いっぱいの花束を君に。
- 門田匡陽「その自慰が終わったなら」、2015年[↩]
コメント