出会いというのは、何も人とのそれを意味するわけではないことを改めて実感したのは、恥ずかしいことについ最近のことだ。
それは音楽、それは読書。ものすごいスピードで私の目の前から過ぎ去っていく人やモノ。それらをたまたま知って、たまたま掬う。
そんな形で私の前に立ち現れる事象がうれしいことに後を絶たない。岸政彦著の『断片的なものの社会学』は、その一例だ。
私にとって読書は、いわゆる渇望だ。言葉にならない感情や身の回りの出来事に苛まれるたびに、私は本の中に何らかの糸口を探すようになった。名状しがたい想いを、どうにかして具体的な形にしたい。そうして噛み砕いて、消化し、感情たちを葬ってやりたい。そうした痛切さというのが私の根底にはある。
気づけば読書とは、趣味の一環というよりかは、私が生きていくうえで止むを得ない浄化作用のようなものになっている気がする。 だからといって、無くても生きていけることには、おそらく変わりないのだが。
この本を読んでいて感じたのは、違和感を覚えることなく懐に溶け込んでいく空気だ。水を張ったコップのなかに絵の具を混ぜるときのようにそれはスッと溶け込み、境目が無くなり、一体化する。主張をするわけではないのに、そばに寄り添ってくれる安心感を覚える。
タイトルが表すように、この本では断片的な出来事が語られ、それらはあっけなく閉じられる。さながら人々の日常生活のように、脈絡なくそれぞれの章が紡がれていく様は、儚さと些かの遣る瀬無さを感じさせる。
日々を過ごしていくなかで、どうやら私は以前よりも強くなったようだ。そうは言っても、どうにも弱っちい自分が同席している。そうした自分を隠そうとしているわけではないし、強い人になりたいわけでもない。どちらの自分も過剰になることなく、両者がうまい具合に織り込まれ、折り合いをつけながら生きていくのだろう。
(……)かけがえのない自分とか、そういうきれいごとを聞いたときに反射的に嫌悪感を抱いてしまうのは、そもそも自分自身というものが、ほんとうにくだらない、たいしたことのない、何も特別な価値などないようなものであることを、これまでの人生のなかで嫌というほど思い知っているからかもしれない。何も特別な価値のない自分というものと、ずっと付き合って生きていかなければならないのである。
岸政彦『断片的なものの社会学』、朝日出版社、2015年
私には、対峙したいと思う数少ない人がいる。私はその人にとって、果たして感情の宛先となっているのか、それだけの価値がある存在なのか、考えるもの馬鹿らしくなって、どうにもくずおれることがある。笑ってしまうほどに、我ながらほんとうにくだらない。
そうしたくだらない私が、最後の最期まで私に連れ添ってくれるのだと思うと、これまた笑ってしまう。私には、私自身とどうにかして折り合いをつけていく心持ちが、どうしたって必要なのだ。
これまで生きてきたなかで起こった色々。ひとはそうした色々のすべてを詳らかに語ることなく携え、あるいは忘れ、先へ進むのかもしれない。皆が皆、進むことはできないのだろうけれど。「こんなはずじゃなかった」と何万回も唱えて、〈こんなはずじゃない〉自分と、私は何万回の日々を共にする。
むしろ私たちの人生は、何度も書いているように、何にもなれずただ時間だけが過ぎていくような、そういう人生である。私たちのほとんどは、裏切られた人生を生きている。私たちの自己というものは、その大半が「こんなはずじゃなかった」自己である。
同上
以前とは比べ物にならないくらい、私は私を許せるようになったと思う。たしかに「こんなはずじゃなかった」人生や自己があることは否定できない。それでも、私は前に進むことを諦めてはいない。
〈こんなはずじゃない〉くだらない自分が根底にいるからこそ、私はそれを打ち破っていけるのではないか。まさに止揚するがごとく。本書のなかで「ただ、私たちの人生がくだらないからこそ、できることがある」1と語られるように。
やさしい気持ちで眠りにつける夜もあれば、朝が怖くて怯えていた夜もあった。どちらが良いとか悪いとかはなく、それらはいつか消えてしまう無意味さを、ただ孕んでいるにすぎない。私は、そうした無意味さに救われ続けているのかもしれない。有意義性、重要性、そして価値等、こうしたものがあれば、安心だと、思うことが多々あった。
しかし、すべての事象に意味を見出そうとすると、意味が見出せなかったときにどうにも息苦しくなってしまうのは自分である。本質よりも、意味という形骸化した上っ面だけを求めようと躍起になってしまうことは、とても悲しい。
私に必要なのは、あらゆる事象への意味づけではなく、むしろ人生をくだらないものだと前向きな諦めでもって割り切ること、それでもこの世界で圧迫されることなく呼吸を続けることにほかならない。くだらねえとうそぶいて、飯食って、朝や夜を迎え、朽ちていくまで、しがみついて。
- 岸政彦『断片的なものの社会学』、朝日出版社、2015年[↩]
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