〈これこそ、まさに探していた言葉そのものだ!〉
長らく抱えていた心情にようやく名前がついたようで胸をなでおろす。野矢先生の言葉はいつだって瑞々しい発見を促す。心のどこかでくすぶっていて表現しきれない、もやもやしたもの。それは言葉という架け橋によって新たな行路を見出すのである。行き止まりだった心が叙述しはじめる。私はそれに耳を澄ます。
わずかなきっかけかもしれない。それでも、小さな一手が人生さえも変えてしまう大きな一撃になることを、私たちはきっと知っている。小さな波紋は教科書の1ページに記されていた言葉だった。その言葉が無目的に過ごしていた16歳の進路を決定づける契機になるとは当の本人だって思いもしなかった。
あのときからずっと、野矢先生の言葉は不思議なくらいに凄まじい引力を持っている。
ひるがえって、心無い言葉に傷つくということは、心温まる言葉に支えられるということでもある。名状しがたい気持ちに遣る瀬無さを覚えるということは、言葉で表現できる事象が増えれば、少しは気が楽になる、ということでもある。
だから私は言葉の力を信じている。
たしかに他者をみるみるうちに変えてしまう、そんな魔法みたいな力は言葉にはない。それでも、花びらが水面に落ちるとともに仄かな波紋が広がるように、たとえささやかな変化だとしても、言葉の力が波及する先を期待せずにはいられない。
言葉にしたくて、言葉にできなくて、でも、心のなかを這いずっているこの感情をなんとかして〈私なりの言葉〉で表したい。
そうやって悶えながら、世界は私によって不完全なりにも分節されていく。分節と分節の狭間に生まれる新たな分節。空と海のあわいのように一言では表しきれない色について語るように、あれこれと思考を巡らせることで拓ける地平がきっと存在している。
言葉で表現しようとすればするほど、それとは裏腹に表現しきれない部分が露呈することにもなろう。そのもどかしさに打ちひしがれようとも、徒手空拳でできることがあるとすれば、言葉を使い続けるということだ。言い換えれば、それは絶えず考え続けるということでもある。
とはいえ、〈考える〉と一口で言えば容易いが、具体的に〈考える〉とは、どういうことだろう。
色々と定義はあるけれど、そのうちの一つにあるものとして〈考える〉というのは、自分の言葉で語ることであると思う。
誰かが言っていたそれっぽい言葉をなぞるのは、少なくとも〈自分の考え〉とは言わない。自分なりに咀嚼し、そこから自分の言葉を見つけていくこと、そして、自分の思いを主張すること。賛成であれ反対であれ、意見の向きはどちらでも構わないけれど、そうした営みが、〈考える〉ということだと思う。
そして、その手助けをしてくれる一つが、本書である。
本書は以下5つの章から成り立っている。ちなみに本書の電子書籍版は未発刊のため、現在入手できるのは、文庫か単行本なので注意されたい。
日々の生活のなかにさも当然のように溶け込み、今更問うまでもない、という顔つきをした問いに対して、語り手であるミューとエプシロンが対話を重ねながら逡巡の末に言葉を見つけていく。まるで鉱脈を見つけだそうとする会話のやり取りに、目が離せない。
今しがた、〈今さら問うまでもない、という顔つきをした問い〉という表現をしたけれど、こうした問いに真っ向から向き合ってみると、言葉を手繰り寄せることは思った以上に難しいことに気付くにちがいない。
もしかすると当然のように思えることの大半は、当然だと思うことにしておいた方があれやこれやと思い悩まずに済む、という便宜的な規定にすぎないのかもしれない。
生きていくなかで、当然とされてしまうことは生活のあちこちに息を潜めている。当然だとされていることが揺らぐと、ややもすればそのうえに積み重ねられてきたものはあっけなくその座を奪われる。
だからこそ、大切なのは、自分たちの言葉を見つけながら世界を叙述していこう、ということであろう。これは、本書におけるすべての章において貫かれている姿勢でもある。
本書では、「ことばをあてがうことで、そこから何かがはみ出てるってことが感じられてくる」[efn_note]野矢茂樹『ここにないもの 新哲学対話』、中公文庫、2014年[/efn_note]と表現されている。「ことばをあてがう」。なんともしっくりくる筆致で描き出されるこの言葉。
エプシロンとミューを意識しながら、私も自分なりの言葉を見つけ出して、あてがおうとしてみる。が、自分一人で考えても考えても答えを見つけ出せないことなんて茶飯事である。
いくら言葉で示したところで不条理は不条理に違わず、和解するまでにはどれだけの時間があっても足りないこともあるだろう。
それでも、この現象を、あるいは心情をどうにかして詳らかにせずには、心のなかに蔓延る黒い塊をどうにも処理しきれないこともたしかなのである。言葉がなければ、得体のしれない悲しみや行き場のない怒りだけが漂泊して、そうこうするうちに真っ黒になった自分だけが取り残される。真っ黒に塗りつぶされるまえに脱出するには、真っ黒になりそうなその正体を紐解いていくことがおそらく必要な段取りだ。
どす黒い何かに対して言葉を見つけていくこと。すなわち「ことばをあてがう」ことは、根気がいることだと思う。始めたばかりの頃は終わりなどちっとも見えないだろう。だけど、少しずつ少しずつ深度が増していくなかで、〈もしかしたら?〉と思えるような手ごたえを感じる。それすらも、あっけなく手をすり抜けてしまうこともあるけれど。それでも、懲りずにずんずん進んでみる。
「何かをことばで言い表わすと、そこには何か言い表わしきれないもどかしさみたいなのがつきまとうことがある」
野矢茂樹『ここにないもの 新哲学対話』、中公文庫、2014年
「うん。なんて言っていいか、よく分かんない。少し、言えるけど、少ししか言えないことって、ある」
訥々と語られる言葉の隙間に見えるもどかしさ。それをエプシロンとミューはやさしく語る。このもどかしさを、きっと私たちも何度も何度も味わっては、諦めたり、投げ出したり、対峙してみたりしているはずだ。
とかく、「ことばをあてがう」ことには、考えをめぐらせることが必要なのである。時間をかけて発酵しながらお酒が醸されるように、あれやこれやと思考をあちこちにめぐらせることでようやく醸成される言葉も、きっとあるはずだ。
そう考えると、解説でも紹介されているエプシロンの言葉が、一層の臨場感を伴って目の前に立ち現れる。
「何も考えないやつには、考えてもみなかったことなんか、現われるわけないだろ」
野矢茂樹『ここにないもの 新哲学対話』、中公文庫、2014年
表すことができることと、それを覆うようにして出現する表しきれないこと。たしかに表しきれないことがあるのはもどかしい。悔しささえもつきまとう。でも、表しきれないことというのは、表そうとした人にしか見えない光景でもあって、出会いでもある。そこからしか見えない世界を期待せずにはいられないのだ。
「思いもよらないものが現われる。その未知の思いの可能性。それはもう思いもよらないものだから考えたってはじまらない。その、考え以前の予感が輝きを失いかけているとき、〈人生は無意味だ〉っていうため息ともつかないことばになって出てくるんじゃないか」
野矢茂樹『ここにないもの 新哲学対話』、中公文庫、2014年
ともすれば〈そんなの、何の役に立つの?〉という悪意のない文句に晒されもする。たしかに、言葉を手繰り寄せたところでお腹は膨れないし、開発途中の実験に一石を投ずることもできないかもしれない。
それでも、考えることを放棄すれば、何かを改善しよう、だなんて思えないし、何かがうまくいかない理由を突き止めることもできない。それどころか、今自分が抱えている心情さえ紐解くことはできないかもしれない。
考えることの基盤は言葉である。であればこそ、言葉の数だけ掴み取れる糸口もあるにちがいない。
答えがないような問いに対して、これ以上ひねりようがないところまで頭をひねって、なんとか抽出した言葉を宝石みたいに胸に飾る。存外悪くない気分だ。
言葉にすることはもちろん苦しい。今だってそう。でも、そんなときだからこそ、一条の光が差し込むところまで、言葉を頼りに進んでみる。言葉を頼りに言葉を追いかける、だなんて、おかしな話だけれど。
内なる〈ヘウレーカ!〉の声に耳を澄ます。
一瞬ごとに、新たなものたちが、これまでの過去に接続され、生成し、出現する。慣れた道なのだけれど、〈これ〉ははじめてなのだ。何度も来た泉だけれど、これははじめてなのだ。いままで存在しなかったものが、こうして新しく生まれる。無限にある可能性のひとつが、その瞬間ごとに、新たな産声をあげる。
野矢茂樹『ここにないもの 新哲学対話』、中公文庫、2014年
ままならない日々を泳ぎ切る一つの手段。今日も懲りずに世界に悪態をつきがちだけれど、まずは、その〈フザケンナ〉の理由を紐解いてみるとするか。
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