本来であれば〈命をつなぐ〉という表現が正しいのかもしれない。だが、このライブを見て抱いたのは、〈私自身が命につなぎとめられた〉という感覚だった。だからここでは、あえて〈命につなぎとめる〉という表現を使うことにしたい。
綿密な計画を立てるのは性に合わないので、興味のある場所と宿泊先にだけピンを留めた。色々なことを調べてみると、宿泊先付近にすべてが揃っていることに気付いた。パズルのピースをしかるべきところに当てはめていくことにも似た事象は、この旅行の最初から最後まで続いた。初めての台湾、ビギナーズラックさながらの幸運にめぐまれる。
私は、amazarashiが大好きだ。つまるところ、至極簡潔でありふれた気持ちは、私の足を進ませるには十分すぎる源泉であるらしい。会いたい人に会いに行く。それだけが、それこそが、すべてだ。好きなバンドを見るために、国境を越えることだってやぶさかではない。
(二階には座席もあったが)オールスタンディングで見るamazarashiはなんだかとても新鮮で、この姿勢で最後にamazarashiを見たのはいつだったのかとおもむろに記憶を遡ってみた。台場か、あるいは豊洲か、どちらにしても、記憶を数年遡ることになるのは間違いなさそうだ。
着席しながら見るよりも心なしかスクリーンに広がる文字たちは大きく見えた。私が立っていた場所からステージまではそこまで距離が近かったわけではない。とはいえ、椅子と椅子との距離がない分、いつもよりは近かったのだろう。それにステージだって、ホールのそれと比べれば幾分かは小さかったはずだ。
とにもかくにも、見切れそうな文字が視界いっぱいに広がったのは、いつも以上に壮観な光景だった。今、ここに、まさしく存在している。彼らの存在感が、いつもにも増して強調されているように思えた。
いつものタイミングで語られる、馴染みのある言葉。そうは言っても、この日は勝手がちがう。秋田ひろむは、とても流暢な中国語でいつもの言葉を告げた。それと同時に歓喜する観客たちの熱狂を、私は忘れることができない。
アジアツアー「永遠市」Zepp New 台北、青森から来ました、amazarashiです
あの場に居合わせたひとたちは、amazarashiを大好きだ、ということで共通していた。その事実がとてもうれしくて、とてもあたたかくて、一心に胸に迫るものがあった。
4曲目に差し掛かる頃、「永遠市」ツアーと同じように、きっとこのことが伝えられた。
名シーンだけの人生ではいられないすべてのひとへ歌います。青森から来ました、amazarashiです。
きっと、と付したのは、これも中国語で語られたからである。おそらく、きっと、十中八九そうに違いないが、「amazarashi」という言葉以外を聞き取ることはできなかった。
さて、披露された歌たちについても、ネタバレを含みながら述懐してみることにする。
1曲目が「俯きヶ丘」だったので、てっきり去年のツアーと同じ曲たちが演奏されるものと思い込んでいた。が、その思い込みは見事に打ち砕かれたのだった。
もちろん「永遠市」ツアーで披露された楽曲も組み込まれていた。が、それだけに留まらず、様々な時代のリード曲が絶妙な塩梅で編成されたセットリストにはなすすべもなく息を呑むばかりだった。
とりわけ中盤に組み込まれていた「海洋生命」。「永遠市」ツアーでは、おかげで「海洋生命」という歌をとにかく堪能することができたが、今回の選曲で再会を果たすことになるとは露ほども思わなかった。A面の真っ只中、不意に現れるB面、これはどう考えてもど真ん中だ。
「ロングホープ・フィリア」だって聴けるとは思いもしなかったから、目の前で繰り広げられる光景に理解が追いつかないまま、私は呆然と光を見つめていた。煌々と照らされるスクリーンに映し出されたのは、見切れんばかりの大きな文字たちだ。その存在感に加えて、言葉たちが持つ意味は容赦なく心を貫くから、信じがたいほど圧巻だったし、もはや痛かった。
大好きだという気持ちは、国境はもちろん、言語をも越えたところにいる聴き手にたしかに届くことを痛感した。あの夜のライブは、演者側も、観客側も、ともに途轍もない熱量に溢れていた。音楽に合わせて思い思いに動くひと、大好きな歌を誦じて歌うひと、普段のライブではあまり見ることのない情景に、ただ胸が打たれた。
スクリーンに映し出される日本語の歌詞と併記される中国語、その歌詞を目の当たりにして息を呑む人々。言葉が分からなくても、みんな、amazarashiが大好きだ、ということが手に取るように分かった。あまりにも美しかったのだ。秋田ひろむの紡ぐ言葉が。それに恍惚とする人々が。
ーーー私も、amazarashiが大好きだよ。だから、彼らの音楽に身を委ねてライブに参加することができて(こうやって聴くのはちょっとした憧れでもあったから)、心からとてもうれしかった。他でもない秋田ひろむの言葉を、言語を越えて聴くことができたから。
今回のセットリストは、一つひとつの曲を終えるごとにさらなる熱を孕むように感じられた。あと100曲聴きたい。そんなことを思いながら、繰り広げられる熱と放たれる光に心酔した。
光を浴びながらにして、私たちは光に照らし出された。それはさながら、これまでの軌跡を照射するようにも思えた。ここまで生きるにあたって、これらの曲たちにいったいどれだけ救われてきたのだろう。
その回数は定かではないが、いたるところで手を差し伸べてもらってきたことはたしかだ。久しぶりに聴く曲、あるいは初めて聴く曲たちのスコールは、私の心にたしかな裂傷を刻みつけた。
amazarashiの歌にはいつも救われているにも関わらず〈傷を負った〉という言い方をしたいのは、たしかな痛みに裏打ちされた名残惜しさと愛おしさがあるからだ。
それは愛猫に引っかかれた痕のような名残惜しさである。この痕は、傷をつけた主が存在していたことの証でもある。つまりこの日に聴き、見たすべてが一生残ってほしいと思うからこそ、この出来事を傷痕になぞらえたいという気持ちがあるのだ。恒久的な傷痕として、この日のすべてをどうにかして遺したいと、唇を噛むばかりだ。
そもそも、「永遠市」を見ることはもう無いと思っていた。12月の国際フォーラムが最後だからと、ツアーが終わったあとは、とにもかくにも芯から寂しさを噛み締めた。
だからこそ、「永遠市」に再会できると知ったときはこのうえなく胸が跳ねた。そして実際に再会を果たせたこと、あの言葉たちをもう一度聴けたこと、さらには中国語でどう表現するのかを一部でも知れたことは、自分のなかにたしかな熱として宿り、かけがえのない傷痕になった。
途轍もなく、特別な経験をした。心が震えるような興奮と、翻訳しきれない熱が脈管を駆ける。色々な思いが巡りはすれど、その昂揚を言葉にすることはできなかった。騒がしい思考を脳内で走らせ、融解した感情が言葉になるのを待つ。
沸き起こる感情を見定め、それらを言葉にすることを試みはするものの、言葉にすればするほど、純粋な感情からは遠ざかる。それでも言葉にしないことには、感情や記憶の風化を回避することはできないだろう。
そうこうするうちに、早々一週間が過ぎ去った。たった一度きりの経験がこれほどまでに愛おしい思い出として蓄積されることを、毎度のことながら感慨深く思う。
初めて赴いた場所が織り成す鮮やかな情景、頭の天辺足の爪先を貫く昂揚、それから何よりも、知らない街で堪能する馴染みのある音楽、これらが融合した先に生まれる〈かけがえのなさ〉。
ありふれた特別に、またしても救われたことを痛感する。掬われ、救われ、あるいは巣食われ、その連続なのかもしれない。だって、柄でもないのに、この日のために生きてきて、こういう日のために今後も生きていけるんだって、大袈裟だとしても、私は本気で思えてしまったから。
さて、残すところあと2曲というところで秋田ひろむが話したのは、ただただ穏やかな感謝だった。
ありがとうございます。日本語でもいいですか?この5年、色々なことがありました。日本でも、台湾でも、いろいろありました。色々あって、『永遠市』というアルバムを作って、ツアーをやることができて、本当にありがとうございます。あと2曲です。
このMCでは、秋田ひろむはすべてを日本語で話した。が、できるだけ平易な言葉を選びながら、ゆっくり話していたことはとくに印象的である。合点がいくところもあれば、いかないこともあったかもしれない。でも、誰もが「あと2曲」という彼の言葉を理解し、名残惜しさを露わにしていた。
最後から2番目の曲は「ごめんねオデッセイ」。そして最後は、「アンチノミー」。私たちがこれまでに見てきた「永遠市」というツアーと同じ曲順で大団円を迎えようとしたとき、すなわち「アンチノミー」が始まる直前で、私たちは、もう一度あの言葉に出会った。
埋め合わせようのない欠落や、永遠はないという諦めや、刹那の昂揚からふと我に返ったときに、どうしようもなく項垂れる長い夜、手持無沙汰に探るポケットのなかに、今日の音が、今日の言葉が、どうか、一欠片でも残っていますように。
ここまでは日本語だったが、これに続く最後の一節は中国語だった。あの場にいた誰もにとってこれが光に等しい一節になったことは、のちにKKLIVEがInstagramにアップした写真にこの言葉が中国語で記されていたことからも明らかだ。
夜の隅っこで一人泣いていたあなたへ、どうか、どうか、生き延びて。
在黑暗角落的你, 請你一定要活下去。
中国語の表記はKKLIVEのInstagramのストーリーより抜粋
台湾では、二日間雨が降り続けた。そうしたなかで私たちは、amazarashiという沛然たる驟雨に打たれ、滂沱の涙を流した。それは、土砂降りでびしょ濡れになりながらも、得も言われぬ爽快感を味わうのにも似ている。この先を生き延びていけるだけの光を、私たちはこの夜にたしかに受け取ったのだ。
ともすると、いろいろなものに絡めとられてしまう。ああでもない、こうでもないと、ろくでもないことがものすごい速度で脳内を駆け巡り、それとは裏腹に大切なことは埋もれてしまう。
でも、その〈いろいろ〉を思い切ってそぎ落としてみると、最後に残るのは、思っている以上に簡素で、飾り気も混じり気もない確固たる感情であることに気付く。
きっとそれこそが自身を駆動させる原動力にほかならない。それさえあれば自分はどこにでも行くことができる。私たちはこのことを折に触れて思い出す必要がある。それは自分の足取りを少しでも軽くさせてくれる手立てになるはずだからだ。
私にとってそれは、好きなものを好きだと思う気持ちである。何のひねりもなくて、ありふれていて、とにかく無意味で、拍子抜けしてしまうようなものだけれど、たぶん、これが私の足を進ませる唯一にしてすべてである。かけがえのない無意味である。
特別すぎる経験が楔になって、私は命につなぎとめられる。もはやamazarashiこそが楔であると言った方がより近い表現かもしれない。
amazarashiという楔が、私を命につなぎとめてくれるのだ。
折に触れて、言葉にしてみる。amazarashiが大好きだと。同時に、この感情がたしかな重量を持って自分のなかに根を張っていることにも気付く。ちょっとだけこそばゆいけれど、やっぱり言いたいことを言葉にしておくのは必要なことだ。ほかでもない、自分自身のためにも。
ともあれ、私の世界を拡げてくれてありがとう。次はどこに行こうか。再会が待ち遠しい。
さて、最後にセットリストを書いてこの記事を閉じようと思う。が、書いてみたもののはじめと終わり以外の曲順が怪しかったのでカンニングをしてみたら、8割は正解だった。いつもと比べるとわりと覚えられたことはたしかだな。いやいや、強がろうともただの言い訳である。
▼カンニング後のセトリです。
コメント