久しぶりに見た雪も、凍えるような外気温も、まさしく厳しい冬のそれで、冬の青森にやって来たことを実感した。降ったばかりの新雪はふかふかで、目の前には未踏の雪原が広がっていて、とめどない白さに少しだけ泣きそうになった。
去年の12月に来訪した冬の青森を見て、この季節が秋田ひろむの情緒にとって重要な契機になっていることを、烏滸がましくも確信したことを思い出す。
短期間の滞在であれば笑えるような雪も、そこに住まうとなれば話は別だ。
凍結する路面、痛くなるような強風、横殴りの雪。きっと、気が滅入るような冬に「また来たか」と吐き捨てることだってあるだろう。実際に日本海の街で数年を過ごした私は、湿った雪にも、涙が出るような海風にもうんざりしていた。とはいえ、嫌いにはなれなかったけれど。
青森に住むかぎり、何かにつけてきっと雪はつきまとう。憎もうとも、愛でようとも。同時に、そこでしか形成しえない情緒も、確実にあることを悟る。
穏やかな太平洋ではなく、いつの季節もどこか寒々しい日本海を見ることでしか培えない情緒がある。荒れた姿を見せることが多い日本海が時折見せる不思議なほどに凪いだ水面を見ることでしか映し出せない心の内がある。そんなことを、差し出がましくも、思わずにはいられなかった。
東京ガーデンシアターと同様に、光は一心にスクリーンを目掛けて進んでいることに気付く。当たり前のことだけれど、なんだかそれがうれしかった。それと同時に思ったのは、あの光を手中に収めたいということである。
紫色の火花を渇望した或る阿呆者さながら、あの光に向かって手を伸ばしたかった。そんなことを思っていたら、開演時間が間近に迫っていることにハッとする。
この目が捉えたのは、スクリーン裏に動く仄かな人影である。たしかな歩みとともに、各々の定位置につく。今か今かと暗転を待ち構える。もう少し、あと少し、次の瞬間、満を持して全ての照明は落とされた。
青森で見るライブは、なんだか特別な思いがする。なんだか、とても穏やかな気分でamazarashiを観た気がする。終盤に向かって、否応なく滂沱の涙ではあったけれど。
それにしても、歌い終わったあとの声の揺らぎをほとんど感じさせないから、秋田ひろむの喉は凄まじい。伸びやかで広がりのある声は、いついかなるときに聴いてもたまらなく好い。
何度見ても「インヒューマンエンパシー」で頭突きするテルテル(と勝手に呼んでいる)は痛々しいし、カエルのような手足はなかなかにグロテスクだし、初めて見たときも結構な衝撃だった。
何度見ても、と言えば「海洋生命」から「超新星」に続く運びは毎回滾る。畳みかける言葉の連なりは目を瞠るものがあるし、拳を突き立てたくなるくらいに気分が昂揚する。言葉と音楽が織り成す圧巻のさまを、刮目せずにいられようか。
畳みかけると言えば、「ごめんねオデッセイ」のときに、中盤までギターを持たずに佇むところが好い。マイクスタンドに噛みつくのではなく、両手を組んで、両手をギュッと握りながら、力強く歌うところが好い。
終盤に差し掛かるころ、手にされたギターとともに突風のように駆け抜ける音と飛び交う言葉、木漏れ日を欲するところも、趣がある。太陽光の燃えるような熱ではなく、木漏れ日という、ささやかな温みを欲するところが、好い。
印象的だったのは、「美しき思い出」の成り立ちについて。秋田ひろむによれば、「美しき思い出」はむつに住んでいたときに作られた曲のようだ。そのことを喋る秋田ひろむは、台詞ではない心中を話してくれたように思う。
ほんのわずか途切れ途切れになりながら言葉を紡いで、少しばかり噛んだりして、その姿を見たとき、スクリーンの向こうで話す秋田ひろむは、血の通った人間なんだな、と思って、なんだか、当たり前のことなのに、なんだか、心が温かくなった。
同じように、生きている人間なんだ。
「過去と現在が錯綜する耳鳴りに僕らは何を見るのか」という問いの答えは、「一瞬の夢を見る」という叫びだった。
秋田ひろむが、最後に語った言葉は、次のようなことである。「埋め合わせようのない欠落があろうとも、永遠はないと悟ろうとも、ふと我に返ったときに項垂れる長い夜があろうとも、ポケットのなかを探ったときに、今日の音や言葉が欠片としてでもいいから見つかりますように」
絶対はないのが絶対だったり、永続するものはないという諦めに打ちひしがれても、たしかに願うのは、そんなときには、この日の出来事を欠片や塊としてたしかに掴みたいということだ。
物理的にここまで私を連れてきたのは、たしかに「自分という最小単位」かもしれないけれど、あなたたちに出会えたからこそ踏み出せた一歩もある。
そういう意味では、彼らには、ここまで連れてきてくれてありがとう、という感謝に尽きる。
青森に繰り返し訪れるようになったこととか、ね。
私は、誰かの言い訳になりたいと思った。例えば、この世に残るための言い訳とか、誰かを留めるための言い訳とか、言い訳になりたかった。
「美しき思い出」を聴いて、ようやく、訪れることができそうな場所が一つ、できました。心の整理、とでも言えるだろうか。行ったからって何かが変わるわけじゃ決してないけれど。
そもそも誰かの死に意味を与えるのは、生きている人間が成すことで、きっと意味を与えたいのも、腑に落としたいのも、生きている人間の所業だ。恣意的に分節して噛み砕かなければ納得できないこともある。何かとままならないね。
今回のライブを見て、ようやく整理できた気持ちがある、ということだけは、大切にしておこう。世の中は変わらなくても、私の気持ちは変わることもあるかもしれない。
もう少し、青森を堪能して家路につこう。
ここまで連れてきてくれてありがとう。一緒に逃げてくれてありがとう。どうか、これからも、よろしく。
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