この日、私は光の発信源を見た。文字通り、光が生まれる場所と、その光が向かう場所を見た。目線を少しだけ落としながら、眼下に捉えた広大なスクリーンと、その奥を凝視した。
ここから見たことで気付く風景があることをいまさらながら知る。スクリーンに映し出される文字の連なりは、光の収束によるものにほかならない。腑に落ちた感覚を噛み砕きながら、私は物理的に放射される光を再び追った。
なんかさ、すごく、すっきりした気持ちなんだ。頭のなかも、心のなかも、とても軽くなって、夜風を纏って歩けた気がしたんだ。
泥濘を這いずった時期を振り返れば、今生きている世界はあまりにも穏やかで拍子抜けするくらいである。たしかに、ままならないことは多くある。が、とりたててつらいことは、幸い、今はほとんどない。
それでも、起きたことはなくならない。だから、たまに疼く消えない傷をさすることがあろうとも、この日みたいにたしかな温みを宿した夜のことを繰り返し思い出せればいいと思う。
糾える縄のごとく無慈悲に訪れる禍福に翻弄されようとも、この世界にもう少し留まるために、どこかの未来へ向けて私は言葉を放つ。ある意味では、自分を救うための命綱とも言える言葉を、ここに置いていく。「安心も多い方がいい」1と歌ったのは、まさしく秋田ひろむその人だ。
さて、いつの未来でもいいけれど、有事の際に改めてこのひとかけらを見つけるために、私は書きたいことを書くことにする。
暗転する際の、一瞬の静寂と、それを吹き飛ばす喝采は、いついかなるときに体感してもたまらなく心地よい。「俯きヶ丘」で火蓋を切られたところで、「amazarashiライブツアー2023、永遠市、東京ガーデンシアター、青森から来ました、amazarashiです。」と、お馴染みの言葉とともに改めて開幕は高らかに告げられた。
それから、「インヒューマンエンパシー」、「下を向いて歩こう」と展開されたところで、「名シーンだけの人生ではいられないすべてのひとへ歌います。amazarashiです。」と続く「ディザスター」。
歌ってくれるひとがいるということは、それだけでも生きるに値する理由になる。『永遠市』を主軸に展開される楽曲たちに身震いしながら、この日のライブを刮目する。
本来、amazarashiのライブは着席しながら観ているのだから、それなりにゆったりと観ることだってできるはずである。それなのに、オールスタンディングのモッシュピットで大暴れしたあとみたいな疲労感がのしかかってくる。
おそらく、集中して見つめるから、身体にも拳にも力が入るのだろう。声を押し殺してさめざめと泣いたりもするし。
何よりも大きな要素と思われるのは、繰り広げられる音楽のみならず、映像、言葉、彼らの存在感、もとい圧、そうした要素が複合的に合わさっていることである。音楽を媒体として、彼らは途轍もない威力を創造している。徒手空拳であるのが好ましいのだとしても、受け取るエネルギーの総体は膨大すぎる。それでもこれは、うれしい悲鳴に相違ない。
連綿と続く言葉たちを追いかけながら思ったのは、いつもより、言葉が鮮明に見えるということである。おそらくこれは、頻出ワードの可視化を行ったからだと推測する。
少し説明を加えると、趣味の一環で、Pythonを用いてamazarashiの歌詞分析と頻出単語の可視化をやってみた。全ての歌詞をもとに抽出された頻出ワードを改めて見ることで、言葉たちの輪郭がより明瞭になったように見えたのは、おそらく気のせいではあるまい。
見方を変えたり、新しい見方を見つけるたびに、世の中は改めて細やかに分節されていくらしい。まだまだ知らない遊びが、世の中にはきっとあるにちがいない。
高い場所から眼下に広がる世界を見つめる。それは同時に自分のことを俯瞰して見ているかのようにも思えた。まるで、遠くから見ないと全貌が分からないものみたいに。ナスカの地上絵みたいに。ともすれば焦点を失いがちだからこそ、しかるべき時にしかるべき場所に配置されて、少しでも何かを掴めたように思えたのは、幸いである。
毎度のことながら、秋田ひろむが語る言葉を一言一句漏らさずに記憶に留めたいと思うのに、残念なことになかなかそうもいかない。十全な記憶装置は持ち合わせていないからだ。断片ではあるが、一部だけ、憶えているところだけ、書き残しておく。
この日のMCで、秋田ひろむは、目標は何かと訊かれるたびに「音楽を一生続けていくこと」だと答えていると述懐した。それが、より現実味を帯びたところまでようやく辿り着いたのだとも。まるで決意を噛み締めているようにも思えるそのさまが凛々しかった。
翻って前作『七号線ロストボーイズ』は、褒められたいとか、カッコつけたいとか、そうした見栄が少なからずあった作品であったのに対して、今作の『永遠市』は、ようやく音楽に真っ向から向き合えた作品だと表明していた。
思えば、船出を彷彿とさせる黎明の歌たちが込められているから、そこはかとない光を感じたにちがいない、『永遠市』からは。それは旅路の始まりであったり、この先を歩む人々に向けた祈りも込められているようにも感じられる。
だからこそ、「生き延びて」と腹の底から紡いでくれた想いを反故にするわけにはいかない。ままならないことは多いけれど。疎外感を感じたりとか、心を消耗すると分かっていてもかかずらってしまうこととか、不必要に自分を責めてしまうとか、なんか、いろいろ。
とはいえ、好きな人がそう言ってくれたんだから、何としてでも生き延びて、また次のライブも行きたいよね。臆面もなく、好きな人とか言っちゃうけど。
というわけで、今日はいよいよ青森。今日も生き延びている最中なので、これからライブに行ってくるよ。
- 秋田ひろむ「空っぽの空に潰される」、2011年[↩]
コメント