2023年10月25日に新譜である『永遠市』がリリースされた。今回参加したのは2023年11月3日に開催されたライブだったので、発売から目睫に迫ったライブである。昂揚と緊張と没入と、そうこうするうちにあっという間に11月3日を迎えた。
騒々しい無人から早くも約5か月が経つことに驚きもするが、前回のツアーで最後に見た日から1年近くが経過していることも不思議に思えてならない。いつもの一週間を送るときは、まだ水曜日か、などとうなだれるにも関わらず、ライブ一つを取ってみれば、想像以上の速度で軌跡が伸びていたことを知る。
1年ぶりにamazarashiのツアーに赴いた。そう思うと、季節の移ろいはあまりにも速い。とはいえ、これを言い換えれば、思いのほか早く再会することができた、ということになるだろう。季節が目まぐるしく過ぎ去っていくことは、どうやら悲しいことだけではなさそうだ。
『永遠市』の楽曲はほとんど聴くことができるはずだ、という期待とともに膨らむのは、それ以外ではどんな曲を聴くことができるのだろう、という昂揚だった。馴染み深い曲であろうと、初めて聴く曲であろうと、喜びに変換されることは言うまでもなかった。
実際に今回のライブを見てひしひしと感じたのは、この公演を繰り返し観たいということだ。今回限りではないけれど、情報処理が追い付かないので、数回にわたって『永遠市』という光景を目撃したいという気持ちが滾々と湧き上がってきた。
目の前で繰り広げられる情景にまなざしを向ける。じっと、ただ見つめる。そして耳を澄ます。スクリーンに映し出される映像と言葉の数々、その裏で音楽を掻き鳴らす演者、大きな音量が響き渡る空間。それらをじっと見ることによって、あるいはじっくり聴くことによって触発される感覚があることを知る。
辛かろうと、楽しかろうと、何かがあった、という出来事が事実として消えることはない。何かを体験した、という出来事も、決して消えない。たとえそれらが風化しようとも、色褪せようとも、平気になりつつあることに後ろめたさを覚えようとも、それらは徐々に内化されているのであって、消えたわけではない。
たしかに、私はどん底にいた。しかしながら、もう十分に浮き上がってきたことも、同時にたしかであることを、今回のライブを見て思った。
以前のツアーでamazarashiを見たときとは感じ方がちがう。それは、好きだとか嫌いだとか、趣味嗜好に関わることではない。以前とはちがう感じ方をした自分に気付いたこと、それこそがささやかな前進だと思えたのだ。
私は、もう過去の泥濘のなかで右往左往しているのではない。そこから何歩目か先に、確実に歩を進めている。
もっとも銘記したいのは、あのとき地の底を這いずって生きようとした自分がいたから、こう思えるようになった、ということである。あのとき立ち行かなくなったからこそ、その反動で、今は随分マシだと、それどころか上々だとさえ思えるようになったのだ。
これは、マシになったと言えるところまで、つまり光に向かって、進んできたことの証にほかならない。
大変なことはもちろんあるけれど、基本的にHAPPYじゃん、という気持ちで生きていると、思いのほか身の回りに溢れている幸福に気付く。お裾分けしてもらったり、あったかいお茶が美味しかったり、困っているひとを手伝うことで自分が助けられたり。
たしかにネガは私の一構成要素なので過去の出来事同様に無くならないけれど、いずれにしても、楽観主義が私の根底にはあるので、思っているとおり「なんとかなる」ような気がしている。
それでも、予期せぬ苦しみに出くわすことも、勘定として入れている。今となっては乗り越えられたからプラスに考えられるだけで、渦中にいるときは本当に苦しみしかないので、好んで経験したいわけもない。
が、そこまで経験したんだから、それ以上に幸福なことがあるにちがいない!と思わずにはいられない、という気持ちもある。これだけの苦しみをどうにか泳ぎ切っている最中なのだから、この先にあるのは、これよりは大概マシなものだろう、と。
そう思わないと生きるのは苦しいと思う節もあるだろうし、ただ単に希望的観測でそう思いたいだけかもしれない。根拠のない楽観主義は身を滅ぼしかねない。でも、私はまだそれで身を滅ぼしてはいない。見え透いた強がりかもしれないけど、ちゃんと生きている証拠にほかならないだろう。
暗闇のなかにいたときに見たamazarashiは幽かに灯る白い光だった。「どうか挫けることなく光へ進め」という秋田ひろむの言葉を反芻し、辿り着いた先がこのライブだった。そうこうするうちに、光が当たる場所でamazarashiを見た。
彼らは、これほどまでに力強い音楽を奏でるのかと、改めて身震いした。寒さや恐怖を感じたときに使われるらしい「鳥肌が立つ」という言葉以外に適切な表現が見つからないくらいに、その美しさと逞しさに鳥肌が立った。
訥々と、それでも力強く語られる言葉の続きに何が来るのか、私たちは知っていた。「どうか」という呼びかけに続く言葉を、私たちはすでに耳にしたことがある。
「生き延びて」
秋田ひろむが力強く放った言葉は、心のなかで思い浮かんだ言葉とタイミングさえも一致した。同じタイミングで同じ言葉が心のなかと外で響いた。呼応した。
何があるか分からない世の中で、今そばにあるぬくもりをどうにか守りたいという気持ちが、自分を支えているかけがえのない要素であることを実感する。何があるか分からない世界で、amazarashiというバンドのことはやはり好きで、彼らの歌が心に刺さることも相変わらずだった。変化のなかに不変を見出すような、そんな夜だった。
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