本当に行くことができるのだろうか、それは物理的にも精神的にも。
項垂れながら随分と長い間逡巡していたように思うのだが、それはおそらく、外面上の話である。「行かない」以外の選択を取るはずがなかった。何はともあれ。
生活圏を抜け出すことが久しいので、少しばかりの外出にも胸が躍った。秋霖もなんのその。黒を纏って軽快に歩む。こんな情勢でも、こんな時だからこそ、雨が降っていても、それでも、会いに行くほかなかった。生まれて初めてライブに行く時のような高揚と緊張を携えて、ケロっと仕事を終えて。やっぱりライブは、目の前で繰り広げられるすべてを刮目するのが醍醐味だ。
ポエトリーリーディングを聞いて、秋田ひろむの声が一等好きだと再確認した。すべてを憶えられずとも、噛み締めた言葉の一つ一つ。あの時間に感じたのは、私の存在と言うものが、様々な否定を連ねたとしても「尚塗りつぶせなかった余白の部分」1であることが、どうやらたしからしいということである。
だからこそ、続けざまに突き付けられた「私は私の○○ではない」という箴言に対し、〈では、私とはいったい何なのか〉と即座に問うのは尚早だと、口をつぐんだ。「私は○○である」と自己紹介を連ねても、自分の核心には触れられずに、自分の周囲について言及するに過ぎないように感じるのはなぜだろうか。そんなことが脳裡をよぎりながら、あの夜ははじまった。
光と音のたなびきに、己の定点を喪失したかのように座っていながらにして眩暈がした。現前する音の重みと息吹に武者震いがして、頬を涙が伝った。音の圧に潰されそうになりながら、何度も聞いたことがある歌を聞いては、訳もわからず涙に明け暮れる、というのがamazarashiのライブでは恒例行事になっている。
もちろんこれが私に限ったことではないことは、方々から控えめに聞こえたさめざめと泣く音が物語っている。お互いにとって無名の個人が、銘々「色々あったの色々」2を抱えて偶然交差しただけのことが、ひどく愛おしかった。そういえば彼は、「言葉は人間を形作る」3と言っていた。
足枷になって僕らを延々縛り付けるような呪詛もあれば、まるで羽根が生えたかのように足取りを軽くしてくれる言葉があることは、言葉を諦めなかった僕らだからこそ知っている事実だ。
たいていのライブに行くと、心の底から湧き上がってくるような、漲る何かを感じることが多い。それは生命欲とも、明日への希望とも言える代物なのかもしれない。バックホーンのライブは特にそういう傾向があるので、言葉も気力も横溢するのを肌で感じる。
それとは対照的に、amazarashiのライブが終わった後はあまりにも静謐だ。圧巻のステージを目の当たりにして、満たされないわけがないのだが、何かが横溢すると言うよりも、私の中身が空っぽになるような余白が生まれるのである。それはおそらく、秋田ひろむがすべてを代弁してくれるから、というだけではないのだろうが、明確な理由はよく解らない。
ただ、あれは、日々の憂鬱が雪がれて浄化された自分に気付く、稀有な瞬間だった。ただ生きているだけでも、真っ新な白紙の余白を鬱屈や後悔で黒く塗りつぶして、遣る瀬無さに圧し潰されているように思う。
そんな私に必要なのは、悪の根源を断ち切る根性でもなければ、そうした憂鬱や罪悪感を許す慈愛でもない。それよりも前に、黒く塗りつぶす自分を、どうしたって許せない自分を、許せないこと自体を、受け容れてみる手はずを踏んでみるのが大切なのかもしれない。許せない自分を許してみようと、久々に缶ビールをぐい吞みしてみる。
青森、必ず行くからね。
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