amazarashi Acoustic Live2024「騒々しい無人」@20241112 東京ガーデンシアター

amazarashi
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気のせいかもしれないけれど、11月にamazarashiのライブに行くことが多い気がする。単純にそういう日程なだけで、たまたまのことだろう。だが、ちょうど一年前、さらにその一年前、というふうに過去のライブに思いを馳せるきっかけになるから、個人的にこうした偶然の一致は地味にうれしい。

さて、三公演目の「騒々しい無人」。東京公演、ツアーファイナル。

amazarashiのライブでは、どっしりと座りながら目の前の光景に一心にまなざしを注いで耳をそばだてることになるから、回数を経るごとに憶えている範囲が広がるような気がする。集中しながら〈観る〉と〈聴く〉を同時に行っていて、さらにそれを繰り返しているわけだから、それも当然のことかもしれない。

思えば、ライブに行かない限りは、じっと〈聴く〉だけの行為を行うのは思いのほか難しい。というのも、日常生活においては何かと並行して〈聴く〉ことの方が圧倒的に多いからだ。例えば移動中や入浴中。それから、スマホを操作しているときや料理を作るとき。振り返ってみると、別の行動をしている最中に音楽を聴くことは思っている以上に多い。

だからこそ、私にとって身を入れて〈聴く〉ということは、特別な営為として立ち上がってくる。

そもそも、何か一つのことに集中することは何かを同時に行うよりも疲れやすい。たとえそれらを主体的に行っているのだとしても、〈じっと聴く〉ことと〈じっと観る〉ことは特に神経を使う行動だと思う。

もっとも、amazarashiのライブでは、じっと観て、じっと聴くことになる。だから、正確に言うと同時に二つのことに集中しなければならない。改めて考えてみると、並大抵ではない神経を使うことは容易に想像できる。amazarashiのライブでは常時座っているにもかかわらず、ライブ後にそれなりの疲労感に包まれる理由はきっとここにある。大げさかもしれないけれど、神経を削る代わりに、この衝撃を一心に受けることができているのだ。

大切な音楽だからこそ、日常生活の中では使っていそうもない神経をフル稼働させて、一つひとつのライブを記憶のなかに留めようとする。入力と出力を行うことにより、記憶が少しでも盤石になることを願うばかりだ。そのためにも、ここでも11月12日のライブについて感じたことや曲の感想を連ねてみようと思う。


「エンディングテーマ」

今日で「エンディングテーマ」を聴けるのも最後か…などと思う。何度聴いてもうれしいし、しばらくライブでこの曲を聴けないと思うと、率直に言って寂しい。

この日に「エンディングテーマ」を聴いていて一番胸を打たれたのは、「腹が減ってる時の食欲みたいなもの あなたはどうか大事にしてね」1という歌詞だった。最近になって、そういうものの大切さを痛切に感じている。

自分から沸き起こる素直な気持ちであるにもかかわらず、そういう純粋な心の動きはともすると無視されやすい。ずっと無視し続けていると、いざというときに見失ってしまうのに、そんなことも気付けずに、見て見ぬふりをしてしまいやすい。

だからこそ、そうした気持ちを本当に大切にしてあげたいと思う。食べたい物や欲しい物が何か、定期的に立ち止まって、できるだけ目を向けるようにしたい。

スーパーとかで何を買えばいいかまったくわからず立ち尽くした挙句、結局何も買わずに帰る、なんてこともよくあることだから。

「ロストボーイズ」

弾き語りで奏でられる「ロストボーイズ」は、深みとやさしさをより一層帯びていて、陽だまりのようなぬくもりがあった。それでも、学生時代を思い返すには「ロストボーイズ」はあまりにも青くて苦い。苦くて、やさしい。色々が綯い交ぜになりながらヒリヒリと心に染み入る。なんだか痛い。とうの昔に学生を卒業した私にとっても、この歌には共感する部分が多い。きっと心のどこかに、学生時代の自分が潜んでいるのだろう。

当時を振り返ること自体が劇薬なので、できればそういうことは回避したい。いずれにしてもたしかに言えるのは、学生の頃に「ロストボーイズ」に出会っていたら、きっとまた別の刺さり方をしていたにちがいない、ということ。自身が置かれている状況に応じて異なる刺さり方がするから、歌はおもしろい。

私はきっとずっと迷子だと思う。なんかもうこれずっと言ってることだけど。それにしても30代で迷子って、字面はいろんな意味で地獄だな。

せめて台風くらいに定まった進路で目的地に向かいたい。向かっていると思って到着した場所が目的地になることもあるだろうし。

「ワンルーム叙事詩」

今日も今日とてすさまじい勢いで燃え上がる命の炎を目の当たりにした。繰り返し銘記したいのは、「この人生って奴には負けるわけにはいかない」2ってことだ。何があるかは分からないし、だからこそ怖いし、打ちのめされがちな日々ではある。それでも、「この人生って奴には負けるわけにはいかない」。

すべてを破壊したところから何かを始めるということ。そういう身辺整理って、ものすごく大切な心の機制だと信じてやまない。だから私は、「新しい自分に出会うため」2にすべてを燃やそうとする破壊衝動を賞賛したい。

私も新しい自分に出会いたい。ふとそう思ったら、涙が止まらなかった。

「そういう人になりたいぜ」

「そういう人になりたいぜ」が始まったとき、ピアノが加わることで、ギターの音と秋田ひろむの声に一層深みが増すのが分かった。それはさながら、景色に色がついたようだった。とてもとても澄んだピアノの音と、秋田ひろむのやさしい声。鳴り響くすべてが、心にじんわりと染みわたった。

それと同時に思い出されるのは、前回の「騒々しい無人」だった。はじめにギターだけだったところにピアノが加わり、さらにバンド編成になる。そして、最終的にまたギターだけになる。

amazarashiの曲を様々な角度から堪能できるこの構成に、繰り返しため息をつく。なんという贅沢なのだろう、と頭を抱える。3回目でも、そういう反応は健在だった。大げさというなかれ。

「光、再考」

「光、再考」はamazarashiの代表曲で、これまでも繰り返し歌ってきたから、最近はあまり歌うことがなかったらしい。たしかに、思い返すと「光、再考」を聴くのは随分と久しぶりな気がする。ただでさえ目まぐるしく過ぎ去っていく日々だからこそ、なおさらそう思うのかもしれない。

とはいえ、どれだけ久しぶりでも手になじむ感覚があることはたしかだった。ひどく懐かしい気持ちが込み上げてくる。懐かしいといっても、そんなに昔のことではないのに。

ピアノとギターだけとは思えない迫力に呑まれる。改めて「光、再考」を聴いて、その汲々とする感じとか、切実さとか、光とか、すべてが眩しかった。

「令和二年」、「パーフェクトライフ」、「この街で生きている」

「令和二年」→「パーフェクトライフ」→「この街で生きている」という流れには要注意だと自分自身に繰り返し警鐘を鳴らしていたにもかかわらず、私は一点に集中するばかりで五分後に思いを馳せることすらできなかった。

だから、それぞれの曲が始まるたびに心のなかで奇声を発することになった。ライブの解像度はたしかに上がっているはずなのに、学習しない。素晴らしい選曲をありがとう。生きていてよかったと、心の底から思った。

「まっさら」

「分からないことには怯えない」3という歌詞が一等刺さった。この先はたしかに不安なことが多いけれど、そればかりじゃないことを忘れないでいたい。事実、私は不安に囚われて心身の調子を崩すことがとにかく多い。

だからこそ、不安と折り合いをつけながら、不安をどうにかなだめながら、なんとかして不安と共存したい。「分からないことには怯えない」という歌詞を、折に触れて思い出したいと思う。これがしばらくの間の目標だ。

「吐きそうだ」

サビの部分で広がる「生きる意味」という大きな文字。そこには、サブリミナル効果みたいに光の三原色が重ねられ、少しだけ揺らいでいたのが印象的だった。二日酔いの時って、たしかにチカチカ見えるときがあるし、グラグラ揺れたり、とにかく気持ち悪い。歌詞と融合する映像に疑似二日酔いを思うなど、稀有な体験をした。

それよりももっと稀有なのは「吐きそうだ」を聴けたこと。最後の最後に「吐きそうだ」を配置してくれたことに無類の喜びが沸き上がってきた。「吐きそうだ」と感じながら「生きる意味とはなんだ」4という問が駆け巡る酔狂さ(褒めています)に心からの拍手を送る。

「どうなったって」

通算3回聴くことが叶った「どうなったって」という新曲。スクリーンいっぱいに広がる歌詞を必死になって追いかけたからこそ、記憶のなかに音楽や言葉の断片がたしかに残ってくれているのだと思う。

「どうなったっていい」という秋田ひろむが吐露する心情はとても尊いと思う反面、やっぱり健康でいてほしい、という気持ちも否定できずにいる。

いつしか、バンド編成で聴くことができるのだろうか。どんなふうに演奏されるのか、今から楽しみだ。

「君のベストライフ」

実を言うと、終演後に何かしらの発表があるかもしれないと期待をしていたので、スクリーンに映し出される大迫力の映像と音楽には胸が高鳴った。「僕は大嫌い」5ということを高らかに突きつけてくれたことがなんだかうれしかった。また突き刺さる歌に出会ってしまった。


憚らずに言うと、死と真摯に向き合うことで拓けてきた展望、それこそがamazarashiが紡ぐ歌で、私たちが呼応する感性でもあると思う。身体と心を開く。そのなかに流れ込んでくる音楽や言葉、そして光は、たしかな養分となって己の一部を形成していくと願ってやまない。

歌が琴線にふれるということ、心が動くということ、歌に呼応するということ、言葉が刺さるということ。それらの総体は、畢竟生きてきたという事実に基づく営為だ。この巡り合わせを祝福せずにいられないし、生きることを無性に肯定したい気持ちもある。

そうは言っても、生きていることに対して毎日感謝することはできない。忘れることもあれば、現金なもので悪態をつきたいときだってある。それでも、腹の底からどうしようもなく感謝が込み上げてくることがあることも事実だ。だから、まずはそれを大切にできたらいい。

当たり前のように日々を過ごしているけれど、当たり前に過ごせるからこそ、それが当たり前でないことを私たちは忘れやすい。だからこそ、時々立ち止まって自分の座標を確認する余白が大切になる。大切な根元の部分を憶えておくためにも。

同じ演目を繰り返し観る。ここには、驚くほど新しい発見に溢れている。だから、端的に目が離せない。そういう意味でも、同じツアーであったとしても、できる限り足を運びたいと切に思う。

そう言いながらも、早々と今年のamazarashi納めをしてしまった。次は半年後、新言語秩序の続編を目撃しに行く。厳しい冬を乗り越え、汗ばむ陽気の初夏に、amazarashiに再会できることを心待ちにしている。

なにはともあれ、生きていこう。生きていこうな。

騒々しい無人ツアー、ありがとうございました。久しぶりにamazarashiチャージができたので、4月までできる限りホクホク過ごします。

  1. 秋田ひろむ「エンディングテーマ」、2016年[]
  2. 秋田ひろむ「ワンルーム叙事詩」2010年[][]
  3. 秋田ひろむ「まっさら」、2023年[]
  4. 秋田ひろむ「吐きそうだ」、2016年[]
  5. 秋田ひろむ「君のベストライフ」、2024年[]

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