2017年12月7日に舞浜アンフィシアターで開催された弾き語りライブ「理論武装解除」。勝手ながら、「騒々しい無人」に対してそんなイメージを抱いていたので、あの場に居合わせて見事に度肝を抜かれた。
まるで沛然たる驟雨に打たれて全身ずぶ濡れになるみたいに、一周まわって諦観にも似た清々しさを感じずにはいられなかった。
1曲目、誰が「ジュブナイル」を聴くことができるだなんて想像できただろう。聴き馴染みのあるあの風体とは一変した佇まい。
疾走感あふれる「ジュブナイル」とはまた違ったアコースティックバージョンの「ジュブナイル」。その力強さと趣きにまず胸が打たれた。
舞浜でも「たられば」を聴いた記憶がある。『地方都市のメメント・モリ』が発売されたのも2017年。「あなたの眠った顔 見ていたら こんな僕も悪くないなって思えたんだ」1というフレーズを聴くたびに思い出すのは、実家にいる猫たちのこと。
あの子たちの寝顔を見ていると、私も私のことを「悪くないなって」思えるんだよ。
あの夜、秋田ひろむはいつもよりもとても饒舌だった。「長いこと続けていると、嫌いだった曲もなんだか好きになる」ということを言っていた。
そんな言葉のあとに続いたのは「隅田川」。銘々の思いを抱くのは、秋田ひろむも例外ではないらしい。スクリーン越しだけではなく、本当に花火が咲いているように見えた気がした。
すべての迷子たちに聴いてほしいと心底思う「ロストボーイズ」。どうにか恙なく過ごせているけれど、どこか息苦しい。もしかすると誰しもがそんな学生生活を送っていたのかもしれない。
私の学生生活は、というと、言うまでもないけれど、やっぱり息苦しかったよ。それなりに楽しかったけれどね。
和やかさを掻っ攫うようにして弾かれる六弦の音に息を呑んだ。何本もの鎖がスクリーンに映し出される。弾ける六弦と同じように跳ねる心臓の音。
まさか、と思った「リビングデッド」。会場に向かう途中、怒涛のamazarashiシャッフル大会(ソロ)を開いていた最中、何らかの脈絡で始まった「リビングデッド」。
改めて聴くと渋いし、本当にかっこいいなあ、なんて恍惚としていたら、この日はアコースティックバージョンの「リビングデッド」にも巡り合えた。六弦は、時に打楽器に変容する。
炎が灯ると同時に合点がいった「僕が死のうと思ったのは」。類まれな希望の歌が秋田ひろむの後ろに煌々と灯る炎よろしく私の目の前を照らし出す。
先日の―――と言ってももう7か月以上も前にはなるが―――「ロストボーイズツアー」でも堪能した「僕が死のうと思ったのは」。いつでも聴きたい希望の曲なのだと改めて肯いた。
畳みかけるように続くのは、THE FIRST TAKEと同じようにして語り出される「光、再考」の最後のフレーズ。何度も動画で見ては涙を流したあの歌、「季節は次々死んでいく」。
規則正しくまわる季節のなかで、これまた規則正しく咲く花、名残惜しさなど感じさせもせず散る花。
それでも、そこにたしかな生命力を思わずにはいられないのだろうし、のたうち回るようなつらい日々の起点さえも、懐かしく思えることもあるのかもしれない。生きることは、どうしたって日々の積み重ねだから。
絶えては甦る季節と、それを取り巻く生命の欠片たち。随分と遠くまでやってきたことを、綻んだ表情で迎えることになる日はやってくるのだろうか。
この日、「カシオピア係留所」にようやく会えた。この歌をライブで聴くのは初めてのことである。ずっと、待っていた。ようやく出会えた。それなのに、なぜか〈再会〉と言いたくなってしまうのは、おかしなものである。
星に見立てたライトを背負う秋田ひろむ。涙で視界がぼやけることで、点在する光は一筋の光になった。まるでそれは光の雨のように降ってくるようにも見えた。
直近の日曜日、勢いで板橋区立教育科学館に赴いた。もちろん、あのプラネタリウムを観に、である。この天井に「カシオピア係留所」が放映されたのかと思うと、歓喜のあまり血が沸いた。
そんなことを思いながら、一つひとつの言葉を慈しむように噛み締める。共通言語が痛みだと翻訳してくれた秋田ひろむには何億回目か分からないけれどまたしても救われてしまった。
ところで、「全歴史が私の背中を押す」2というヨレンタさんの言葉を「痛みの堆積が歴史だ」3という秋田ひろむの言葉を拝借して書き換えるとすれば、「痛みのすべてが私の背中を押す」とも言えるのではないか、ということが頭をよぎった。
意訳が過ぎるとはいえ、どうしても。
共鳴する痛みに感謝するのはおかしな話ではあるが、痛いと思える心の存在を誇りに思いたい。これは、私だけの痛みだ。
ほどなくして、聞き覚えのあるピアノの音が耳元に滑り込む。秋田ひろむの声と六弦に、新たな音が加わる。ピアノの音が重なることに驚きつつも、聴き馴染みのある曲に安心を覚える。
「そういう人になりたいぜ」。アコースティックライブで聴けたら格別だろうな、と思っていた曲のひとつだったので、聴けてうれしかった。
「ひろ」を聴くと毎回泣いてしまう。本当に、本当に、いい曲だ。ライブならではの力強さ、真っ直ぐに届く言葉。切実に思っているその気持ちは、ずっしりとした重さを伴って銘々の心に突き刺さっていく。
心に刺さるのはどの曲だってそうだけれど、「帰ってこいよ」もいつも以上に胸に響いた。スクリーン上にお馴染みの青森が映し出される。この青森の景色は、私も秋田ひろむを真似て見た景色でもある。
ああ、そうだ、秋田ひろむが見た景色だからこそ、〈見たい〉と思ったのだ。
彼が見た地を、曲がりなりにも私も見て、改めてそれらをスクリーンをとおして目の当たりにすると、感動というべきか、軌跡と表現すべきか、なにはともあれ烏滸がましいとは解っているものの、滾る血を感じずにはいられなかったのだ。
居酒屋とかカフェで歌っていたと言っていたのは「さくら」。amazarashiの何がすごいって、できることは片っ端からやっていたということだ。
夢というものに向かって、愚直に、なんでもとにかく手を伸ばして活動を重ねていたということが、あまりにも尊い。
夢というには大仰ではあるが、私にも諦めきれないことがある。ずっと疼いていて、燻っていて、それの結晶がここで繰り広げられる言葉たちである。私は、どんなふうにしてそいつらと折り合いをつけることができるんだろうな。
私なりのやり方で、どうにか諦めきれない愛おしいこいつを掬ってやりたいのだが。なにはともあれ、できることは、継続、それだけかもしれない。
さて、底力のあるシンプルな歌から一転して、一つひとつの音が組み込まれていく。「馬鹿騒ぎはもう終わり」。
モノクロームの世界に一つひとつの色が重ねられていくような鮮やかな色彩が見えたような気がした。音が重なることで時間もさらなる厚みを増していった。
このライブが終われば「それぞれの生活に戻るの」4解っているの。でも今は、この音に身を委ねたい。
リリースされたばかりとはいえ、アコースティックライブで「スワイプ」を聴けるとは思っていなかった。音源で聴くよりもピッチが速いように感じたのだが、それは猛スピードでスクリーンを駆け巡る言葉たちの作用だったのかもしれない。
煌々と飛び交う言葉たち、そしてそれを包括する歌、音、その全てに圧倒された瞬間だった。
もっと、もっと聴きたいと思った曲のひとつ。
ボイコットツアーのときも、「別れの歌です」と高らかに告げられて始まった「夕日旅立ち」。楽しいのに、なんだか無性に切なくなるのはどうしてなんだろうな。いつも、理解に苦しむよ。また、会いてえよ。
そうこうするうちに、最後の曲がやってきた。ステージに一人残された秋田ひろむへと、まなざしの全てが向けられていた。
「生き延びてください」と飾らない真っ直ぐな言葉が、これまた真っ直ぐに聴き手に届けられる。「アンチノミー」。秋田ひろむと六弦が佇むステージで、ひっそりと編まれた歌だった。
感情を持つこと、人を愛すること、自ら選択すること、知性をもつこと、そのどれもが心の尊い機制であることを「アンチノミー」を聴くたびにまざまざと感じさせられる。
ままならない人間の心は、ままならないからこそ魅力的にも思う。踏んだり蹴ったりで、もう止めちまいてえなアと思うことがきっとあるだろうけれど、それでも、このままならなさを愛することができればいい。
やりきれない日々とか、止むに止まれぬ名残惜しさとか、妄想みたいな願望、諦めきれない欲望、それでも期待せずにはいられない希望、そのどれもが現実で、なんとかそれにしがみついている自分がいる。
果たして生き延びることはできるだろうか。そうはいっても、大好きな歌を絨毯爆撃よろしく受けてしまったら、どうにかして生き延びる算段を立てないとな。何としてでも生き延びなければならない理由がここにあるのだ。
なんとも、幸福な葛藤だった。
体感で23曲くらい歌ってくれたとばかり思っていたけれど、セトリカードをもらって驚き、まさかの16曲。一つひとつの楽曲があまりにも重厚だから、飛び切りの濃密な時間だった。
私たちの人生がいつかどこかで、また交差する日を楽しみにしています。その座標が、たしかな未来になりますように。
本当にありがとう。
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