15時くらいに仕事を切り上げ、19時から始まるライブに向かい、最終より少し手前の新幹線で帰路についた。こんなふうに勢いだけで行動することとか、ほんの少しの無謀だとか、ただのバカだと我ながら呆れる一方で、こういうバカを私は私に一生やっていてほしいと思う。
たとえそうしたバカをやる頻度が今よりも落ちてしまったとしても、あるいはバカから遠ざかってしまうことがあるとしても、いつだってバカをできるんだって心づもりは、なんとしてでも忘れないで心のなかに保持していたい。しょうもない矜持だが、これは私の生存戦略なので、蔑ろにすることはできない。私はそんな私を肯定したい。
さて、本題に入ろう。
仙台公演から1週間程度しか経過していないこともあって、いつもよりは記憶も鮮明で、全体も見通せたように思う。後方の座席に配置されたこともあってスクリーンを伸び伸びと眺めることができたし、繰り広げられる光景にしっかりと焦点を当てることもできた。
それとは対照的だったのが、経過する時間の速度である。まるで突風みたいな勢いで過ぎ去っていく時間に言葉を失った。自分が受けた衝撃がどのようなものだったかまるで分からずに、ただ呆気に取られてしまったのだ。
が、決してそんなことを言いたいわけではないことは、誰よりも私が一番知っている。うかうかしている場合ではない。この速度のなかで、私は考えなければならない。惚けている場合ではない。決して〈なんか、うまく言えないけれどすごかった〉などと表現するに留まるわけにはいかないのだ。
私が不思議に思ったのは、なぜ、繰り返し繰り返し泣いてしまうのか、ということだ。何も今回のツアーに限った話ではないのだが、amazarashiのライブに行くとあの空間に特別な何かが噴霧されているのでは?と思うくらいに泣けてくる。もちろん何も噴霧されていないにちがいないが。
私はこのことについてしばらくの間考えていた。泣いてしまう理由は、もちろん悲しいからではないし、うれしいから、というのも少し違う。たしかに思いがけない選曲ゆえに昂り、感激して落涙というのもないわけではないが、amazarashiのライブで泣いてしまう理由は、単に感情だけに留まるものではないように思う。
涙の理由を紐解くことは無粋かもしれないけれど、今日はもう泣かないだろう、と立てた予想があっけなく打ち砕かれ、不思議と泣けてくる理由に見当をつけたいのも本音である。とはいえ、それに納得がいったからといって、やっぱり泣いてしまうのだろうけれど。まあ、いいか。
ほんの少しだけ当てがあるので、それについて順を追って説明したいと思う。
当たり前のことではあるけれど、ライブでは視覚と聴覚であらゆる刺激を食むことになる。一般的なライブに対してamazarashiの場合は、視覚情報が圧倒的に多い。ステージに佇むバンドマンに留まらず、映像や言葉が滝のように流れ込んでくるからだ。
流れゆく言葉をこの目が捉えたとき、それらが心に突き刺さるのをたしかに感じる。言葉を吸い上げたときに響くものは、その時々によって自分が欲する言葉も異なるから、場面に応じて変動的である。ただ、きっと変わらないのは、そういう言葉に呼応するのがまぎれもなくそれを受け取ったひとの感性に依るものだということ。そしてそれは、そのひと特有の感動や心の動きだということだと思う。
そこで歌われている曲もそのときに目にする言葉も同じなのはたしかだが、それでも、そのときに何を感じて何を思うかは自分だけに固有のものである。だからこそ、その特別さは一層際立つ。何よりも他でもない自分にとって価値のある歌や言葉としてそれらが浮き彫りになるからだ。
そう思うに至るのはライブの一瞬だけに限らない。ライブに至るまでのなんでもない日々のなかで歌を聴きながら、歌に対する思い入れというものが育まれていくからだ。個々の思い入れが組み込まれることによって、大切な歌はもっと特別な意味合いを帯びることになる。
そんなふうにして琴線に触れる歌だからこそ、そのなかで紡がれる言葉を胸に灯しながら、自らを奮い立たせることができているにちがいない。言葉への共鳴、それから背中を押してもらうことの数々、それらの積み重ねが自分という一個体の形成へとたしかにつながっていく。
歌に感応する。共鳴して、心が震えて、特別さや切実さが汲々として込み上げてくる。胸に迫るものがあることははっきりと分かる。が、迫るものの正体は掴み切れない。自分の心のなかで起こっている動きにもかかわらず、その機制には見当がつかない。
しかし、これまでの人生における色々が歌への共鳴や共感だとかにつながっていること、そしてそれは歌を起点にして起こっていること、ふと泣いてしまう理由がそこにあるのは、どうやらたしかなものだと見てよさそうだ。
考えてみれば真新しい発見ではないけれど、いささか乱暴にも思えるけれど、涙の発端が単に感情だけに紐づけられたものではないことが腑に落ちただけでも、ここでは良しとしよう。これまでの人生を反映させた心があるから、amazarashiの歌に共鳴しているはずなのだから。
この世のすべてを言葉で言い表せるとは思っていないけれど、せめて自分の心が動いた経験くらいは、言葉にしたいという気持ちがある。言葉に遺すことができれば、折に触れて当時の情景を臨場感を伴って少しでも思い出せそうな気がするからだ。
そうした営みのさなか、えてして言葉にならない(できない)ことは根元の部分でもどかしさになり、頭をもたげてくる。そうした歯がゆさに比例して感情も揺らぐし、言葉にしてみたところで、己の稚拙さに忸怩たる思いもする。言いたいことを言い当てられないとき、苛立ちにも少しだけ似たもどかしさに苛まれるのだ。
切実な気持ちを言い表せない。言い表したところで、本当に言いたいことを言えていないことに気付いてしまう。言いたいことと感情とに漠然として距離があることを突きつけられる。本当の想いから遠ざかってしまうような気がする。ーーー心が挫けそうになる理由はいくらでもある。それでも、できるだけ肉薄して言葉にしたいというエゴを、どういうわけか放棄できない。
言葉が醸成されるまで、あるいは〈これだ〉というような手ごたえのある表現を見つけるまでには時間がかかる。あとになってみれば、比較的冷静になって当時を振り返ることもできるのだが、その当時は心に受ける衝撃のあまりに言葉を失い、何が起こっているのか言葉に翻訳できず、ただ泣いている。もどかしさも、感動も一緒くたに綯い交ぜになりながら。
そんなライブの話を、最後に少しだけしようと思う。MCの大枠は前回の仙台公演とほぼ同じだったけれど、一言一句同じであるほどの緊張感は良い意味で漂っていなかったので、肩の力が抜けたような〈発話〉を聴いているような気持ちになった。ところどころ裏返った声を聴くのでさえ、なんだか途轍もなく愛おしかった。
繰り返し同じ公演を見ることで、次に演奏される曲に対して心構えができるようになるし、全体を見る余裕も生まれて、少しずつ解像度は上がる。それでも、そうだとしても、今ここで観る景色はすべてが〈初めて〉であることに変わりはない。たとえ100回ライブに行ったとしても、それが事実であることを忘れないように、新鮮さを噛み締めたい。
バンド編成で聴く「夕立旅立ち」の壮大な響きを名残惜しむように始まった「どうなったって」という新曲。ライブが終わった後で繰り返し頭の中に漂うのは、「どうなったって」のサビだった。ギターだけで奏でられる「どうなったって」を反芻してみる。
「どうなったっていいよ」と歌う秋田ひろむの本心を受け止めもするけれど、やっぱり心から願うのは、たのむからずっと健やかでいてくれよ、という具合に彼の健康だ。お薬手帳が埋まることには心底共感してしまったけれど、やっぱり健康が要なのだと個人的にも噛みしめている。健やかに暮らしたいし、暮らしていてほしい。ライブは健康じゃないとお互い思い切り楽しめないからね。
というわけで、まずは健康を整えようと名古屋駅で購入した500ml缶と天むすを腹に入れながら帰ることにした。戯言はさておき、名古屋公演ありがとうございました。次は東京、ファイナルです。
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