いつの間にか、青森に行くことそれ自体が、自分のなかで大きな目的と化すようになった。今年は青森に5回行くことができた。12月も行く予定だ。そう考えると、平均すれば青森には2か月に1度は赴いている計算になる。いったい私は何に魅了されているのだろう。青森という地が持つ引力には、ほとほと圧倒されるばかりだ。
小さなきっかけが思わぬところに自分を連れて行ってくれることがある。水面に広がる波紋のように、どこか思いも知らない遠くで私と呼応する何かを見つけることがある。軽い気持ちで足を延ばしてみたことが発端になって、こんなにも青森が身近になったのだから人生には何があるか本当にわからない。
私が青森に足繁く通うことになったきっかけは、amazarashiというバンドだ。青森県出身である彼らのライブをお膝元である青森で観たい、そんな軽い気持ちで初めて青森に行ったのは、3年ほど前のことだ。
もともと地方住まいだった私にとって、遠方の土地にライブに行くことはごくごく自然な営みだった。だから、正直言って一念発起したわけではないし、その行動自体は既視感のあるものだった。だからと言って、遠方の土地、ましてや彼らの故郷で観たライブには、いっそう胸に迫るものがあったことに変わりはない。このときはライブだけが目的だったので、青森市内を巡ることはほとんどなかったし、かのアスパムでさえ寄らなかった気もする。それくらい、amazarashiのライブだけが目的のとんぼ返りの滞在だった。
青森を巡ろうと思ったきっかけは、「アオモリオルタナティブ」という歌だった。「アオモリオルタナティブ」とは、amazarashiの『七号線ロストボーイズ』というアルバムに収録されている楽曲である。
「アオモリオルタナティブ」のMVには、ボーカル秋田ひろむにゆかりのある「アオモリ」が収められている。このMVに映る景色を探したいと思った私は、珍しくライブ以外を目的に知らない街を訪れてみることにした。その記録をまとめた記事もある。
身も蓋もない言い方をすると、聖地巡礼は思いのほか骨が折れるものだった。無理もない。公共交通機関と徒歩だけでそうと思われる場所をひたすら巡ったのだから。
自らの足に任せて、嗅覚を頼りに探し回る。効率とはかけ離れたやり方で歩き回ったので、一度の訪問ですべての景色を収められるわけもなく、結果的に数回にわたって私は青森に赴いた。
思えば、この繰り返しが私を後押しする営為にほかならなかったのだろう。誰かに会うでもなく、ライブに行くでもなく、「アオモリオルタナティブ」に映し出される「アオモリ」を観るだけ、というもはや体当たりの目的。地図を見ることなく、なんとなく歩き回ったなかで手に入れた土地勘。こうした過程を経たからこそ、私は青森のことがさらに大好きになったのだと思う。
ようやく表題を回収しに戻ろう。「アオモリオルタナティブ」、その後。
かつての私が目的としていたのは、「アオモリオルタナティブ」の撮影地を巡ることにほかならなかった。全ての箇所を周りきったわけではないけれど、ある程度のところでやり切った感触を覚えた。たしかに、それから訪れなくなった街もあるけれど、それでも、青森に行きたいという気持ち自体が萎えることはなく、むしろ次から次へと沸き起こる。
目に見えなくても、自分の中にたしかに根付いている感覚や思想がある。それは、これまで自分が生きてきた途中で見つけたものであり、そうこうするうちに私を形成する大切な要素になっている。誰しもが、そうした聖域を持っている。
当然のことではあるけれど、それらは、生きてこなければ出会えなかったものたちであり、どういう縁があってか心の琴線に触れた存在である。こうした聖域は、まさしく奇跡的な巡り合わせのうえに成り立っている。いくらなんでも大袈裟だと苦笑したくもなるけれど、やはりこれは特別なことに違いない、という気持ちで満たされている。
ただボケっと海を見ている。それだけのことではあるが、そこに至るまでの軌跡も含めて、壮大な渦のなかにいるような感覚に陥る。青森湾を呆然と見つめながら初秋の風に吹かれる。陽射しは少しだけ強いが、風は爽やかで、僅かながらに冷気を孕んでいた。どこからともなく見つけたそれがこの上ない贅沢であることを後々痛感する。
たしかに今やネットの口コミやマップは、知らない土地を難なく歩くためには必須のツールだ。その多大なる恩恵に預かってる身からすれば、それらを否定するつもりは毛頭ない。が、最近になって思うのは、そうしたツールに完全に身を寄せてしまうと、野生の勘みたいなものや、嗅覚みたいなものが薄れてしまうのかもしれない、ということだ。
そうしたツールを手にする前は、自らの嗅覚を頼りにして、知らない街を歩いた経験がたしかにあった。インターネットもろくに使えない異国の地で、何の変哲もない通りを歩くだけのことが、何よりも目覚ましい刺激になって私の情緒を耕してくれた。
何もそれは外国に限ったことではない。今の私にとって、まさしくそうした土地が青森だ。地図や口コミに助けられると同時に、自分の直感を大切にしながら歩くこともできる。自らの情緒を耕すことで、私は私の心を守ることができているのだと思う。
青森を訪れるたびに、何らかの〈初めて〉に出会う。そうして、知らず知らずのうちに新鮮な気持ちを味わう。そういうのも、訪れるたびに青森を好きになる理由の一つに違いない。様々な巡り合わせが重なって出会えた景色がある。喜びと有難みがひときわ身に染みる。生きていたからこそ見つけることができたものたちに思いを馳せる。どれもが感慨深い出来事として立ち現れてくる。
「アオモリオルタナティブ」の景色を探した私は、それだけに留まらず「アオモリ」という地を踏みしめている。「アオモリオルタナティブ」、その後。それは私の本編のひとつとして、たしかに立ち現れている。
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