過剰なまでの装飾、そこから強調される猥雑さ。フィクションだと分かっていても催す吐き気と嫌悪感。憚らずに言うと、心底気持ち悪い。ここには、想像の世界に留まりきらない生々しい感覚と臨場感に溢れている。
たかが4分15秒。だが、この4分15秒の間に繰り広げられる「修羅場」には、その曲名にふさわしいだけの生き地獄が描き出されていた。もっと言えば、歌詞にもあるように「たかが色恋沙汰」をめぐるありふれた惨劇が繰り広げられていた。
2024年7月、9月、10月と3か月にわたり、「光と影」をコンセプトにした楽曲たちがリリースされると発表があった。影が強調されるということは、その裏には必ず光が存在していることを意味する。光に照らし出されれば、同時にそこには影が生まれる。
対概念にして表裏一体の「光と影」。THE BACK HORNが「光と影」を解剖するにあって、その端緒は影に据えられた。影から始まり光に収束していく打ち出し方には、そこはかとない期待が膨らむ。
さて、ここで冒頭に連ねた言葉たちの続きを迎えに行こう。コンセプト作品の皮切りになったのは、7月3日に配信開始した「修羅場」という曲だ。ここでは「修羅場」をめぐって込み上げてきた感情についてつまびらかにすることを試みる。それがただ単に〈気持ち悪い〉という一言に収束しない理由を紐解いてみたい。
「修羅場」という楽曲のなかで繰り広げられているのは、痴情のもつれを題材にした〈架空の〉世界である。言うまでもなくこれは自明だ。が、それにもかかわらず現実との境界が曖昧になる感覚を覚える。自分が体験したわけではないのに、妙な現実味とともに立ち上がり、自分にのしかかってくるのだ。
それはまるで「修羅場」を通じてこの曲に登場する人々の出来事を自分の体験としてなぞるような感覚とも言える。たとえ自分の体験として立ち上がってこずとも、この「修羅場」の有様をそこはかとなく想像せざるを得ない状態に追い込まれ、この世界にくぎ付けにされる。そこまでの引力が「修羅場」という歌には宿っている。
この作用によって、フィクションとノンフィクションとの境界にとどまらず、自他の境界さえもあやふやになっていく。
作り話だと思えない生々しさとリアリティに飲み込まれたとき、「修羅場」のなかで繰り広げられていることに、たしかな温度が宿っていることに私たちは気付く。そこには〈よく見聞きするような地獄〉が描き出されると同時に、他人ごとではないと想わせる効能もある。
だから、この曲を聴くと〈気持ち悪い〉と思うのだろうし、清々しいまでの胸糞悪さも込み上げてくるのかもしれない。
数々のフィクションの狭間に露呈するノンフィクションには、その生々しさや粗暴さゆえにときに現実的な感覚を歪ませる効能がある。リアリティを感じさせるのがフィクションの役割だとすれば、現実逃避を喚起するのがノンフィクションの担うところか。
いずれにしても「修羅場」という曲はとても恐ろしい歌だ。想像したくなくても否応なしに立ち現れる妄想を拭いきれないのだから。どうにもこうにも頭が融けていくような思いがする。
そういう意味では、「頭だいじょぶそ?」と山田将司がたびたび投げかける理由も理解できる。実際にそういう意味で「頭だいじょぶそ?」と言っているわけではないはずだが、そうとも取れるのが「修羅場」の妙味のひとつでもある。
「修羅場」の歌詞も歌い方も、ひとつの世界をーーーつまり「影」をーーー構築するには十分すぎる威力が込められている。だからこそこれを聴く者は、そのなかに融解するがごとくズブズブと取り込まれていく。つまり、頭はまったく「だいじょぶ」ではない。
「修羅場」における〈気持ち悪さ〉の輪郭は少しだけはっきりした。が、念押しをしたいのは、あくまでも「修羅場」は〈気持ち悪い〉だけの歌ではない、ということである。手に取るような生々しさを湛えた楽曲には、特有の〈気持ち悪さ〉以外にも、言わずもがな魅力が豊富にある。
たとえば、途中に組み込まれる本気の嗚咽だ。いまだかつて、嗚咽が組み込まれた歌があっただろうか。なかでもライブのときに聴く嗚咽は一層鬼気迫るものがある。その刹那を仰視せずにはいられないし、音の欠片も漏らすまいと耳を澄まさずにはいられない。
一呼吸置こう。言わずもがな、この感想のほうが「修羅場」が抱える〈気持ち悪さ〉よりもよっぽど気持ち悪い。
「修羅場」の最後にふれて、この話を閉じよう。「ああ、好きでした」という歌詞について。「ああ、好きでした」と最後に残された言葉には、これまでに遣った心の総体が乗せられているかのように情が込められている。
痛みも美しさもそこには内包されている。こうした艶やかな歌い方も見事に魅せるのが山田将司が成す技巧だ。始めから終わりまで「修羅場」という曲から目を離すことはできない。4分15秒に凝縮された物語と、そこから感じ取れるザラついた手触り。何度も聴いてみたくなるこの歌は、甘い蜜にもなぞらえるかもしれない。
まごうことなき強烈な影。ともすると影にだけ意識を向けてしまいがちだが、忘れてはいけないのは、これだけ色濃い影を生み出すには、それ相応の光が必要だということだ。「修羅場」という影を落とす光について。この先にあるはずの光に期待せずにはいられない。
そういえば、夕焼け目撃者のとあるMCで山田将司はこんなことを言っていた。それは、今回のコンセプトシリーズが「光と闇」をテーマにしなかった理由でもあり、「光と影」とした目論みでもあった。
「光何らかのモノに光が当たることで影が生まれる。ここで言う何らかのモノというのが、バックホーンだと思っていて。バックホーンという存在を介して、世の中にある光や影を表現してみたい。」
繰り返しにはなるが、影が強調されるということは、その反対には影を強調するだけの強烈な光が存在していることを同時に意味する。影が色濃くなればなるほど、光はいっそうまばゆい。きっとTHE BACK HORNが描き出そうとする世界も、そうであるにちがいない。強烈な影の向こう側にある光、その光を目の当たりにする瞬間。それをずっと心待ちにしている。
コメント