千年続いてほしい話

雑記
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選ばれないことにほとほと慣れ切った私が、「選ぶ側」の人間になった。他者と会話することは、たしかに面白いことだと思う。何をどんな風に考えているか、どんなものが好きなのか、どういったことに揺さぶられるのか…関わることなく通り過ぎてしまうかもしれなかった人物の心の琴線に触れることができるから。

やり取りが限られるなか、私にできることは、できるだけ濃やかに接すること、つまり一人の人間であるとちゃんと銘記して接することだと考えている。ただ単に、私がそうすべきであると思ってやっていることなので、やさしいわけじゃないから、結構痛い。

限られた交感のなかで、私はたしかに心を見た。おそらくそれはお世辞や見栄からくるような口上ではなく、声が震えるまでに喉から這い出てきた想いであって、祈りでもあったのだと思う。形骸的な言葉が行きかうなかでちゃんと辿り着いたのは、着飾るでもなく、豪奢でもない、まっさらな言葉だった。少なくとも私はそう信じている。

優秀だとか、もっときっと活かせる場所があるとか、不必要とか、必要とか、体のいい口上を述べる大人を目の当たりにして、やっぱりそうか、と絶望の閾値を越えた地点で、なおも閾値の拡大を覚える。この感情はきっと怒りではない。喪失感に似た寂寞、一直線に伸びる好意、冗談に見せかけた本音、逸らさず突き刺した視線、なりふり構わず主張した意思、遮断された言葉、それでも日々薄れる記憶。それらを悲しみと呼ばずに何と呼ぶのだろうか。

たとえ変わるのが人間の常だとしても、畢竟ひとを繋ぎとめられるのは、人間であると思う。人を救い、傷つけ、結ぶのが言葉だとしたら、誰かをつなぐ紐帯にも、はたまた関係を断つ刃にもなるのは、そうした言葉を発する人間なんだと、今までの経験を振り返ってみてひしひしと感じるのだ。

遣る瀬無くなって、久しぶりに泣きながら帰宅した小雨のなか。悲しい理由も、遣る瀬無さも今一つ理解できなかったのだけれど、唸って唸って腑に落ちたのは、慕っているひとと意思疎通をして、一人のひととして関わるなかで、心をしっかりもらったから、ということ。

もらった言葉や心にのしをつけて返すようなことしかできないのが、何よりももどかしいし、心の底から不本意だし、とても悲しい。ここに長く留まるとか、そんなことよりも、もっと根本的なところで断腸の思いを携えている。

だから私、この悲しみを憶えていろ。できるだけ、反芻させて、ひたすら憶えていろ。明後日にはきっと忘れちまう、この悲しみを、明後日の明後日まで、そしてさらにその明後日まで、憶えているんだ。私だけは、ちゃんと憶えているんだ、嗚咽も心遣いも、繁く後悔も、鼻の奥にツンとくる痛みも、綻ぶように咲いた笑顔も。

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